中年以降の人生を考えるための5冊 今までずっと、ひたすらラクなことや楽しいことだけをやって生きていきたいと思っていたのだけど、40歳を過ぎた頃から、今までのやり方ではいろいろと行き詰まってくるようになってきました。何をやってもそんなに楽しくない。これからの人生はずっと下り坂が続いてい…
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「固有性の棄却」 いろいろ来てますが、まぁ、一つずつやってくしかないですね。 今更こんなことを書かれるのであれば、一度、発端の記事に戻って検討して見せるしかないですね。>http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090331/1238475336 (A)昔から、「民族意識をもて!」とか「民族の誇りを持って生きろ!」と言われることがとても嫌いでした。わたしは、「民族」である前に、ひとりの個人であるし、もし、何か誇りを持って生きることが「立派」で「正しい」ことなのだとしたら、それは「民族」としてではなく、ただの「個人」として誇りを持って「正しい」生き方をしたい、そう思っていました。だから、「民族」「民族」と、わたしに「民族」を押し付けてくる、一部の同胞の社会や人たちを敬遠していました。今でも、その思いはあまり変わりません。 (B)ただ、そういう人がなぜ「民族」「民族」と言って
わたしが書き込んでしまったブクマコメントへの応答から、この間の一連のエントリーを読ませていただきまして、ありがとうございました。 わたし自身、いろいろ考えさせられました。日本社会の中にいて、日ごろに感じていた、抑圧的な感情を、Arisanさんの文章だけに、ぶつけてしまう形になったことを、申し訳なく思っています。ますます右傾化していく日本の状況に不安を感じていたことも、大きいと思います。わたしたちを守ってくれるものなど、同胞団体をのぞいてどこにもないでしょう。有事の際は、どこに逃げ込めばいいのでしょうか。何かあったら、ゲットー行き、という言葉をずっと抱き続けながら生きてきましたし、いま、東京のど真ん中に配備された迎撃ミサイルの映像を見たとき、そのミサイルの方角が、朝鮮半島ではなく、わたしたち同胞社会に向けられているように思え、恐怖で言葉がでませんでした。 わたしは「韓国籍」ですが、そのこと
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p1 へのブコメに関連した http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090405/1238904940 への応答 現在のブコメは下 ↑↓「少数者」を理念化しすぎでは。それは「感情移入」に過ぎぬのでは。「少数者」は顔のない集団ではないよ。「多数者」vs「少数者」の図式だけに頼るのはその中の個を見ぬのと同じ。観念的でナイーブなのはだれ? 以下、本論 最初のブコメで「あっち」と書いたのは基本的には字数の問題です。ただし「あちら」と書くべきであったかとは思います。その点の非礼についてはお詫びします。なお、最初のブコメを書き換えたのは、単にメタブコメをつけるのが面倒だったことと、書き換えた内容の方が、あとで見たあのArisanの記事へのブコメ全体の感じから見て適していると思っただけです。消したの
id:lmnopqrstuさんとid:Arisanさんとの議論について、思うところを具体的に書きます。と思って書いていたら、先にArisanさんが「みなさんへ」を更新されていました。どうしようか迷いましたが、せっかくなのでアップします。 >lmnopqrstuさん (別件で)idコールをいただいていたのに、長いこと気づかずにいて、申し訳ありませんでした。「日本の戦後体制とフィリピン人の関係の歴史的基礎についてのメモ」には喚起される点が多かったので、近いうちにトラックバック記事をアップします。 >Arisanさん Arisanさんの文章からは、これまでも多くの示唆をいただいているので、僭越かもしれません。が、どうしても流せないことだったので、ここで伝えさせてください。 日本人は在日朝鮮人に「援助」できるのか 基本的な視点として、私は、lmnopqrstuさんの以下の指摘はまったく正当だと思い
今回、lmnopqrstuさんはじめみなさんから寄せられた批判、ご意見を読ませていただき、また自分なりに考えを展開してみた結果、自分自身について気づくところがありました。 とくに強く反省した点は、自分がこれまで他者と本当に対等な場に立ち、生きた関係を築くための努力を怠ってきたのではないか、ということです。 この「他者」のなかには、これまで生きて関わってきたあらゆる人が含まれますが、とりわけ今回の出来事に関連して言えば、さまざまな意味での社会的少数者など、自分自身が抑圧している人たちとの関係を築くにあたっては、とくにこのことが肝要であろうと思います*1。 自分が無自覚に有している暴力性や権力性を真摯に見つめることを通して、相手と対等な存在として向き合おうと努力する姿勢を、口先だけではなく示すことが、これらの人たちからの信頼や理解を得るための唯一の道であり、またそうした努力こそが「倫理」や「人
lmnopqrstuさんからTBもいただいてる、最近このブログで論じている件については、後ほど所感をアップするつもりです。 その前に、どうしても書いておきたいことがあるので、一言だけ。 余録:ロケットの心理的価格(毎日新聞 4月5日付け朝刊) http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/ だが食糧や燃料を他国の援助に頼り、国民に極貧を強いながら、自らが依存する国際社会を打ち上げで脅迫する国は北朝鮮しかない この表現は無茶苦茶だ。 たしかに、断定はできないが、現在の朝鮮の国家体制と多くの民衆との関係は不幸なものであるのかも知れない。 だが、朝鮮を孤立させ、従属を選ぶのでなければ現在のような体制をとることを余儀なくさせ、民衆を「極貧」(この認識が正しければ)に追いやったのは、日本をはじめ「国際社会」の側の責任ではないか。 「他国の援助に頼り」、「自らが(国
13:15 周知のとおり3月末から4月現在まで、id:Arisan氏と私は議論を続けています。先日4月2日に、私から氏に向けて「Arisan氏の人間主義を批判する」を投稿させて頂きましたが、それに対してはArisan氏から最初の応答「介入について、その他(末尾追記・訂正)」を4月3日に頂いております。 さて4月5日午後13時現在、ブログ「遠方からの手紙」*1及び「遠方からの手紙(別館)」*2の著者である id:PledgeCrew氏は、Arisan氏の記事「介入について、その他(末尾追記・訂正) 」に付けられたブクマコメントにおいて、次のように述べておられます。 PledgeCrew 民族主義, ブコメ ↑↓「少数者」を理念化しすぎでは。それは「感情移入」に過ぎぬのでは。「少数者」は顔のない集団ではないよ。「多数者」vs「少数者」の図式だけに頼るのはその中の個を見ぬのと同じ。観念的でナイー
先にTBのあった、ぼくへの批判記事のなかで、lmnopqrstuさんは、このように書いた。 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090402/1238677714 結論から言うと私は、氏の人間主義に嘘はないと考えるが、一般的過ぎて無意味だと考えている。それは克服すべき植民地主義の問題(としての在日朝鮮人問題)に対してほとんど何も言っていないのに等しいだけでなく、一般的次元に固執し過ぎることによってかえって悪い影響を与えてさえいると判断する。そもそも私は最初の批判*2において既に氏の具体性を欠いた一般的原則論を批判したが、それは実は、喫緊の具体的問題を論じている金光翔氏への氏の批判が、一般的過ぎて無意味であるだけでなくマイナスに作用すると私が判断したためであった。 引用文の太字に留意すればわかるように、自覚、自制等のキーワードが立論の要所をなしている。左翼と
15:071 本文 id:Arisan氏の「介入について、その他(末尾追記・訂正)」(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p1)、「拘っていること」(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p2) 及び「あの言葉の意味」(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p3) 読ませて頂きました。一部ですが批判を正直に認める氏の姿勢には好感をもちましたが、やはりなお指摘したいことがありますので少しだけ述べてみます。 率直な疑問なのですが、天皇を頂き続けるだけでなく植民地支配の責任もとれない日本の戦後体制が、在日朝鮮人の「罪」についてはずっと(一方的に)裁き続けていること自体への驚き、苛立ち、違和感、焦り等々をもっていない(と私にはどうしても思われてしまう)氏の依拠する人間の倫理というもの
たしかに、こういうことはいえる。 たとえば、在日朝鮮人の民族教育をとっても、日本ではその制度的な保障は、まったく不十分である。 同時に、政治的・社会的な傾向・風潮からいっても、あたかも在日朝鮮人が民族教育を受けることは、社会的に望ましくないことであるかのように当人に考えさせる、強い圧力(バイアス)が働いている。 この状況そのものを不問にして、本人が「民族教育を選択する権利」と、「民族教育を選択しない権利」とを併置することは、ナンセンスであるばかりか、圧力に加担することでさえあるだろう。 実際、制度がまともなものに改革され、政治や社会のあり方が排外的でも差別的でもないものに変ったなら、民族教育を受けたいという在日朝鮮人の子どもは、ずっと増えるかもしれない。 もちろん、そうならないかも知れないが、それに関わりなく、現状の社会の圧力を解除していくことは間違いなく重要である。選択の結果が民族教育を
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■民族主義の問題 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism ■民族主義とは別の道 http://www.mojimoji.org/blog/0179 ■民族主義の問題、その2 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2 mojimojiさんの議論は、次のような図式を前提にしている気がします。 そもそも、在日コリアンとか、沖縄人といったカテゴリは、たとえば在日コリアンの家族あるいは沖縄で生まれた者にたいして、アプリオリにはその本質を規定しない。したがって、「あるべき」在日コリアンや沖縄人は存在しない。在日コリアンであるとか沖縄人であるとかいったものは、男や女あるいはセクマイなどと同様に、「わたし」を構成する要素のひとつとして存在する。その要素にたいしてアイデンティティを持ち、その要素を尊重して生きることは否定され
22:081id:Arisan氏は「反論・左翼と倫理性」*1において次のように述べている。 要するに、目の前に現実に圧迫や暴力にさらされている人がいたら、たとえ介入の暴力を犯す危険があり、また根本的には自分がなすべきことは他にもあるとはいえ、それと同時に、その人を端的に守ったり救ったり、勇気づけたりする義務が人間にはある、というありきたりなことです。 ここで「ありきたりなこと」と要約されている立場は人間主義の立場と言ってよいだろう。氏の「反論・左翼と倫理性」は一貫してこの人間主義を基調としている。だが日本社会は「人間」によって構成されているわけではない。実際氏も認めるようにこの社会には多数派である日本人が存在する。では氏の言う「人間」と多数派日本人はどのような関係にあるだろうか。文中スラッシュは引用者(以下同様)。 すると、最も重要なこと、そして最終的にはそれだけが重要だといえることは、
前回のエントリーに寄せられたブクマコメントに、いま答えられる範囲で答えます。 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090330/p1 まず、mujigeさん。 植民地主義が清算されない限り、すべての日本人は植民地システム(朝鮮人を否定する集団の論理)から抜け出すことはできない。とすれば、“善意の介入”であれ、それは朝鮮人の自己決定権を否定するものでしかない。 「善意の介入」であっても、たしかに暴力です。それは否定しません。 しかし、植民地主義が清算され、日本人が「朝鮮人を否定する集団の論理」から抜け出せなければ、朝鮮人の「集団の論理」の悪い効果を批判することが出来ないとは、ぼくは考えません。 その理由は、エントリーの中に書いたと思います。 この「介入」が具体的に、どういうものであるか、ぼくには言うことはできま
When you hear the word sunroom many different pictures come into your head. First and foremost is how much will it cost? For those interested in these types of additions, price shouldn’t be a factor. You need to look at this as an investment in your home and you will get the monetary value back out if and when you sell your home. This is why sunroom additions in Columbia, SC are so popular. Pe
lmnopqrstuさんから、明快な整理と批判の文章が寄せられましたので、これに答えて反論します。 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090329/1238350534 3部構成になっているうち、「2」の部分を全文引いてみます。 氏が「誤読」を経て現在の立場に至った過程から、「誤読」の立場と、「誤読」を否定して(朝鮮人にも)基本的人権を保障する原則的立場が、それぞれ想定できる。二つの立場は次のようになるだろう。 A : 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人である。 B : そのような主張は危険であり、集団の論理の優位性は見逃すべきでない。 A’: 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人ではない。 B’: 朝鮮人にも日本人と同じ基本的人権を保障すべきである。 つまり氏の解釈は A⇒B か
03:151 周知のようにid:Arisan氏は3月26日の記事「誤読したこと」*1において金光翔氏のいう「自己決定権」を「誤読」したと認めた。氏は28日の記事「前回の記事への補足」*2において次のように述べている。 さて、しかし金光翔氏の文を再読した結果、氏の「自己決定権」に関する主張は、そのようなものとは異なるであろう、つまり「自己決定権を有する存在として扱え」(ぼくは、そのように理解したわけですが)という氏の主張の意図するところは、「自己決定権」を他の権利を制約するような特権的な概念としてとらえているわけではなくて、あらゆる行動を自由になしうる当たり前の人間存在としてわれわれ(在日朝鮮人)を扱え、という意味合いが、専ら込められている。 つまり、ぼくが今思っている意味での、氏の「自己決定権」という言葉は、それを解決することが他のあらゆる問題の解決に優先しその基礎となると考えられるドグマ
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