◇鎌倉文士の原稿や愛用品展示 鎌倉発の文芸誌「かまくら春秋」(月刊)の創刊500号記念展が18~22日、鎌倉市大船6の鎌倉芸術館で開催される。無料。文豪の里見〓(とん)や永井龍男らの生原稿約50点をはじめ、有島武郎らの愛用品などを展示。かまくら春秋社の伊藤玄二郎代表(67)は「文壇の一流の原稿が並んだ。一つのことを続けていくことに意味があるということを知ってもらいたい」と来場を呼びかけている。【松永東久】 かまくら春秋は、70年4月の創刊。伊藤代表が当時、東京の出版社を辞め出身の鎌倉に戻っていたところ、里見が「ぶらぶらしているのはダメ。応援するから出版を始めてはどうか」と声をかけられ、鎌倉風土記や小説、ポンチ絵などを載せたB6判約100ページの「文芸・タウン誌」を出版した。 そして昨年12月号で500号を達成。現在3万部を発行する。42年間の長い道のりを伊藤代表は「鎌倉文士がいたという地の
かつて筆記具は作家たちにとって何よりも大切な“商売道具”でした。 なかでも近代以降の作家たちに最も愛好された筆記具が万年筆です。 ワープロソフトを用いるキーボード派が主流となった現在でも、万年筆での執筆にこだわる作家は少なくありません。 今回は日ごろの文学展では脇役の資料であるこの万年筆にスポットライトをあててみました。 会場には当館所蔵のコレクションを中心に明治、大正期の文豪から現在活躍中の作家まで、27人(*)が愛用した万年筆と自筆資料が揃います。 万年筆とその筆跡が物語るそれぞれの作家像、人間像に迫るとともに、ペン書きの文章ならではの機微や、手書き文字の奥深さをお伝えします。 *=夏目漱石、井上靖、向田邦子、里見弴、中里恒子、開高健、吉川英治、埴谷雄高、井上ひさし、子母澤寛、堀田善衞、 出久根達郎、池波正太郎、江戸川乱歩、黒岩重吾、吉屋信子、中野孝次、北方謙三、大佛次郎、立原
『松本学日記』に里見とんが出ていました。 昭和10年4月3日 午前十時頃の汽車で鎌倉に行く。大仏裏、藤浪別邸に行く。黒光会員黒板勝美、和田三造、結城素明、辻永、里見弓享、大道、服部、小川の諸君。藤浪与平(ママ)衛君は芝居の大小道具方を商売とせる人なり。 「黒光会」は不詳。里見が会員だったようにも読めるが、とん伝の著者とん氏は何か知っているだろうか。 (参考)藤浪は、結城素明『藝文家墓所誌』に出てくる次の人か。 藤波(ママ)与兵衛(小道具)台東区谷中坂本町嶺松寺墓地(天台宗) 明治二十四年三月生る。本名藤三郎。歌舞伎小道具の名人と称せらる。昭和二十七年十二月二十五日「私事にて死す」と遺言して自殺享年六十三。
白樺文学館講演会 「志賀直哉と里見弴」 日時 平成22年2月6日(土)講演 午後2時から3時30分 会場 生涯学習センター アビスタホール 参加者 134人 講師プロフィール 小谷野 敦(こやの とん)氏(比較文学者、作家) 1962年茨城県生まれ東京大学大学院博士課程修了。学術博士、大阪大学助教授などを経て作家として活躍。主な著書に『聖母のいない国』、『恋愛の昭和史』、『谷崎潤一郎伝』、『里見弴伝』、『恋愛の昭和史』、『悲望』ほか多数。 志賀直哉と里見弴との交流は永く、志賀が我孫子で暮らした一時期、不仲な時もありましたが、生涯を通して良き友でした。今回の講演内容は、志賀直哉との交遊を軸に、あまり読まれなくなった里見弴の紹介をしていただきました。 以下講演の概略は次のとおりです。 里見弴は1888(明治21)年7月14日、父有島武、母幸の四男として横浜市に生ま
三角寛と共にサンカのセブリを訪問したNHKのアナウンサー藤倉修一に、『マイク人生うらおもて』という著作がある。そこには、現在NHKで人気の「クエスタ」のモデルと思われる「二十の扉」という番組について書かれている。 中でも二十七年六月の特集「文壇二十の扉」には武者小路実篤・川端康成・永井龍男・高見順・里見弓享という文壇のお歴々が解答者席にずらりと並ぶ豪華版であった。ふだん書斎でのしかつめらしい顔しか想像できない先生方が「お好み焼きに関係ありますか」「猫は動物ですか」などど子供のようなトンチンカンな質問をしたりして無邪気な一面を見せて大好評であった。 昭和27年6月7日朝日新聞朝刊のラジオ欄の夜7時半の「文壇二十のとびら[ママ]」の欄には、里見、川端、高見、永井、吉屋信子の名前が挙がっている。武者小路が正しいのか吉屋が正しいのかというと、ググったら、ブログ「須雅屋の古本暗黒世界」によると、藤倉
谷崎潤一郎室生犀星志賀直哉 文豪の谷崎潤一郎や志賀直哉、室生犀星らが、大正期に発表した小説の原稿などが多数見つかった。雑誌「中央公論」の編集長だった滝田樗陰(ちょいん)(1882〜1925)の遺品で、遺族が日本近代文学館(東京都目黒区)に寄贈する。 15日に発行された館報で同館が明らかにした。 見つかったのは谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」(1917年)、室生犀星「性に眼覚める頃」(19年)、志賀直哉「雨蛙」(24年)などの手書き原稿。いずれも「中央公論」に掲載されたが、原稿は見つかっていなかった。手書き原稿では推敲(すいこう)の跡などを確認できる場合が多いため、どのように作品が書かれたのか調べることで、作品や作家の理解が進む可能性がある。 「異端者の悲しみ」は谷崎の初期作品。当時は作品の発禁処分が続き、打開策として書かれた自伝的小説とされる。「性に眼覚める頃」は、寺で育った青少年の「
『日本近代文学館』152号、1996年7月15日の「里見弓享書簡(一)」所載の書簡のうち、2通が他の文献では読めないものである。 一つは、昭和17年8月14日付け三宅三郎宛書簡で、「御高著御恵投」への礼。もう一つが、昭和35年5月23日付け土岐善麿宛で、「渡辺光子さん母子を御照[ママ]介申上げました処御面会被下いました由御好意御礼申上げます」というもの。「里見弓享詳細年譜」に渡辺光子は出てこないが、どういう人だろう。 - 『sumus』13号は、東京堂書店のベストセラーから姿を消したが、『本の雑誌』4月号の「今月の1冊」に登場したので、再びランクインもありうるか。 - たけしへの叙勲、国民栄誉賞などは前科のせいでありえないのか。
★ 読み終えて思うのは、里見弴という作家のことを、志賀直哉との関連ではある程度知っていましたが、それは全体の30%くらいにすぎないなあ、ということでした。 里見弴が、社交家であり、白樺派以外の作家とも親密に交流していた様子などは、おおまかな知識としてある程度は知っていましたが、具体的な交友関係は今回はじめて知ることが、多くありました。 なぜ里見弴が読まれなくなったか、という著者の解釈も、ある程度なっとくのいくものだ、とおもいます。 ★ 例えば、著者はその理由として、、、 正妻と愛人を同時に持ち、ほとんどは愛人の家で暮している。<一夫多妻>の生活に懐疑とか反省とかいう気持ちがみられない。要するに、一夫多妻ということに根本的な疑問を持っていない、思想の古さ、がある。これはいまのひとたちに共感を得られにくいのでは、という。もっともかもしれない。 作品の多くが、花柳界を描いている。そういう世界の出
さんざんネタに使った柳田國男の『炭焼日記』だが、まだまだ面白ネタが埋もれていた。 昭和19年9月27日 連句委員会第三次、高浜父子、佐藤、深川、久保田、伊原、折口、加藤。 会は平凡なれど行かへりの電車の込むことのみは非常なり。 久保田君と久しぶりにあふ。泉老夫人及里見氏などの消息をきく。 10月1日 日曜なれども戦勝祈願の連句の為に、永田町の文学報国会に集まる。高浜、佐藤、伊東の三君のみ、やゝおくれて折口君来、八句まで進み五時半別れかへる。 「連句委員会」は、日本文学報国会連句委員会。「高浜」は高浜虚子、「佐藤」は佐藤漾人、「深川」は深川正一郎、「久保田」は久保田万太郎、「折口」は折口信夫、「加藤」は加藤守雄。「伊原」は伊東(月草)の誤記か。そして、「泉老夫人」は泉鏡花未亡人すず、「里見」は里見弓享ではありませんか。柳田、久保田、すず、里見が最後にそろったのは、鏡花が亡くなったときのことと
◆昨日ジュンク堂に立寄る時間があったので、武藤康史『文学鶴亀』(国書刊行会)を購った。 文学鶴亀 [ 武藤康史 ] ジャンル: 本・雑誌・コミック > 人文・地歴・哲学・社会 > 文学 > その他ショップ: 楽天ブックス価格: 2,376円そう云えば猪川まこと氏が、かつて「過眼日録抄」二〇〇一年三月一日の條に、<「武藤康史雑文集覧」を出しては呉れないかなあ(そのときは是非正字正仮名で)>と書いておられたのだけれども*1、「はじめに」「あとがき」「旧刊十二番勝負」あたりがやっと「正かな」(旧かな)で、「正字」(旧字)での実現とはならなかった(しかし「あとがき」に触れられるところの「編輯者氏」の英断は尊ばれるべきだとおもう)。 なお武藤氏には、「舊字舊かな十三年―私の言語生活史」(『言語生活』No.435,1988年2月号)という文章もあって、どういう訣かこれはこの度の『文学鶴亀』には収められ
昭和5年11月27日牧野信一の最初の単行本『西部劇通信』(春陽堂)の出版記念会が、大阪ビルのレインボーグリルで開かれた。そのときの様子が、宇野浩二の日記*1に書かれている。 昭和5年11月27日 牧野君の会で里見、徳田、中戸川、小林秀雄、佐々木夫妻、秋田忠義、鳥山□造、久保田、直木、井伏、保高の諸氏に会ふ。直木会費を出してくれる。(略)里見君、前の直木の家へ引越された由。童話集を送る約束をする。 6年3月7日 里見弓享氏より「満支一見」を贈らる。礼状を書く。 注:□は解読できない文字。 「保高」は保高徳蔵。「前の直木の家へ引越された」というのは、なんだろう。里見も直木三十五も麹町に住んでいたようだが。 - 明治43年5月 「蝙蝠の如く」→44年11月 漫画も描かず、煙草も吸わず、ネットもなかったが、「正式の証明」を読んでいると、20代のころの自分を思い出すのはなぜだろうね。 *1:『文学者
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