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ブックマーク / rinnou.net (3)

  • 禅語「独来独去 無一随者」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

    「浄土三部経」の一つ『大無量寿経』にあります。 富有なれど慳惜(けんじゃく)し、肯(あく)えて施与(せよ)せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。是の如くして竟りに至れば、恃怙(じこ)とする所無し。独り来たり独り去りて、一も随う者無し。 慳惜とは、ものおしみする心。恃怙とは、頼む事です。 大金持ちだけれどもの惜しみが強く、あえて他の人に施与せず、財宝を愛して貪る心が強いと、かえって自分自身で心労が重なり苦しむものです。このようにして一生を過ごせば、死に臨んでも頼りにするものは何一つありません。独り来たり独り去りて、一も随う者無し。 所詮、私達は独りで生まれ、独りで老い、独りで病み、独りで死んでいかねばなりません。名誉も、財宝も、子眷族(けんぞく)も一緒に行く事が出来ないのです。 「菩提和讃」を思い出します。 老若貴賤も諸共に 無常の風に誘わるる 臨命(りんみょう)終(じゅう)の果敢

    mustikka
    mustikka 2023/05/28
    種田山頭火。
  • 禅語「本来無一物」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

    仏が無ければ凡夫も無い ―来無一物―(『六祖壇経』) 「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」とトップクラスの神秀上座が言う。これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(来無一物)のだ。どうして無いものの上に塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。 「来無一物」という語は、誰でも知っている禅の代表的な言葉である。誰でも知っているけれど、ほんとうに分かっているかどうかは、まったく別であろう。普通には、「もともと何も無い」というように理解されやすい。 しかしこの「来」という語は、もともとという意味ではなく、「質的に」とか、「根源的に」ということである。また「無一物」は何も無いということではない。 禅宗で言う「無」は大乗仏教の説く「真空」の中国版で、有と無の両方を超え

  • 禅語「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

    中国晩唐の詩人に杜筍鶴(とじゅんかく)がいますが、その詩の「夏日、悟空上人の院に題す」というのが元の句です。 三伏門(さんぷくもん)を閉(とざ)して一衲(いちのう)を披す 兼(か)ねて松竹の房廊(ぼうろう)を蔭(おお)う無し 安禅(あんぜん)は必ずしも山水を須(もち)いず 心中を滅得(めつとく)すれば火も自(おの)ずから涼し ――夏の暑いまっさかりに、悟空上人という方は相変わらず一枚の破れ衣をキチンと身に着けて坐禅をしておられます。しかも炎熱を避ける一株の 松も一の竹もない、まったくの炎天下と同様です。この方を見ていると、坐禅をするのに静かな山中か水辺に居を求める必要はなさそうです。上人のように心頭を滅却し寒熱を超越された方は、暑さに心を煩(わずら)わされることもなく、炎熱もまた楽しといった様子です――。 この句の下二句を、特に持ちきたったものです。しかし、この語を特に有名にしたのは、山

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