十年一昔というが、1995年はもう二昔。歳月の流れ早いか遅いか。私にはなんともいえない。 1995年の少女暴行事件に端を発した沖縄の立ち上がりは、日米両政府に在沖米軍基地を整理縮小統合する日米特別行動委員会(SACO)を作らせてしまった。二昔もの歳月が流れてしまうと、SACOは沖縄の「負担軽減」ではなく沖縄の「負担永続」のためのスクラップ&ビルドであったことがはっきりとわかる。1997年の名護市民投票の際にも、オスプレイ配備、シュワブ陸上の演習場や辺野古弾薬庫との一体化による訓練の内容や頻度の激化、様々な事柄が市民の間に疑念としてあった。当時それらを質問しても、政府はまともに答えなかった。だが時とともに秘密は明らかになる。今となっては軍港機能をも有する要塞であることは隠せない。 SACOを作らせてしまったと書いたが、沖縄県民はマスメディアや支配的な論調の「負担軽減」に翻弄されながらも、移設