嵯峨隆『頭山満』を読了。アマゾンレビューで「古い金庫の立派な鍵を開けたら中身は空っぽだった、ということを確認した気分」と書かれた方がいますが、まったく同感です。竹内好はかつて「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされるアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる」という危うい表現でアジア主義の重要性を指摘しましたが、こうした言葉が我々の思考を喚起する力も、すっかり弱くなったように思われます。 頭山満によって代表される「アジア主義」が輝きをもって受け取られた時代は戦後にも確かに存在していました。戦時中の「大東亜共栄圏」とは異なるアジア連帯の可能性は存在していたのであり、日本が軍事力の代わりに経済力によってアジアを支配しようとしている現在(70~80年代のこと)こそアジア主義を学ぶ必要があるのだ、云々。しかしそうしたアジア主義の輝きは色あせ、とう
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