凡夫(ぼんぷ、ぼんぶ、梵: pṛthagjana、蔵: so sor skye bo)とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう[1]。未だ悟りを得ていない者、すなわち部派仏教においては初果としての預流果を得ていない者[注 1]、大乗仏教においては初地である歓喜地に至っていない者のこと[3]。音写は必栗託仡那であり、異生とも訳される[4]。 「凡夫は〔有〕身見をもって性となす[注 2]」(『釈氏要覧』)といわれて、我見にとらわれている人をいう。 凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。 『玄応音義』には「凡夫というは義訳なり」といって、婆羅必栗託仡那
親鸞という人は、 世間一般で言われていることとは 逆のようなことばかりを 言っていたような人なんです。 例えば 「善人なほもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」 (善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、 悪人は言うまでもなく極楽へ行ける、の意味) という言葉は、テストで 穴埋め問題として出てくるような 有名な一行です。 「□□なほもて往生をとぐ、 いわんや○○をや」 □□と○○それぞれに、 「悪人」と入れるか? それとも「善人」と入れるか? たとえ正解を入れたとしても、 スッと納得できないですよね? ですから、親鸞の言っていることを もっと知りたいという気持ちが 僕たちは、強くなっていく。 そうですね、 親鸞は、言っていることがすべて 知識的に、逆説のように見えるんです。 例えば『歎異抄』 (たんにしょう・親鸞の弟子の唯円がまとめた、 親鸞の語録とされているもの) の中で、唯円が親鸞
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