■済んでいない日本人の戦後処理 ≪母の目に初めて涙見た敗戦≫ 私の一家は金沢市で敗戦を迎えた。小学校2年の私には敗戦の意味は分からなかった。が、8月15日の玉音放送を聞いた母が「日本は負けたのよ」と言って涙していたのは今も鮮明に覚えている。母の涙を見たのは初めてだった。 敗戦は、子供の目にも明らかな大きな変化をもたらした。まずひもじさである。食糧不足で栄養失調になり、足がむくみ、ちょっとした傷も膿んで治らず閉口した。石鹸の欠乏、公衆浴場代の節約などで不潔になり、多くの人の頭髪や衣服に多量のしらみがたかっていた。学校では、米軍支給のDDTを頭髪や背中に散布された。 毎朝、会釈して登校していた校門の二宮金次郎像が、「非軍国主義化」措置として取り除かれ、占領当局からの指示で、新しい教科書の配布が間に合わなかったためか、上級生譲りの古い教科書の中の軍国主義や愛国主義教育にあたる「問題箇所」をすみ筆
赤坂真理さんの「東京プリズン」(河出書房新社)が話題を呼んでいる。アメリカと日本、敗戦と憲法、天皇の戦争責任という大きな問題を、母親との葛藤などの自分史に重ね合わせて描いた長編小説だ。 米国の高校に留学した16歳の「マリ・アカサカ」は「天皇の戦争責任」を論題としたディベートに参加することになる。「責任がある」と主張する役割を与えられて猛勉強を進める。本番は昭和天皇を被告とした「もう一つの東京裁判」の様相を呈していく。母親と天皇と主人公自身が混然となった最終弁論は迫力があった。 「あらゆる資料の中で、これがいちばん心に刺さった」として記されるのが、三島由紀夫の短編「英霊の聲(こえ)」の有名な一節だった。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」。すめろぎ(天皇)に殉じた英霊たちが、「人間宣言」を行った天皇を「などて」(なぜ)と恨み嘆く言葉である。 赤坂さん自身は英霊の発言をこう書く。「わ
ラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal, ベンガル語: রাধাবিনোদ পাল, ヒンディー語: राधाबिनोद पाल, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。東京裁判以前のパールは主に税法専門の弁護士として活動し東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した[1]。 ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表
「東京裁判」はこの項目へ転送されています。映画については「東京裁判 (映画)」を、テレビドラマについては「ドラマ 東京裁判」をご覧ください。 裁判所が置かれた市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂 公判中の法廷内 極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、旧字体:極東國際軍事裁判󠄁、英語: The International Military Tribunal for the Far East、1946年(昭和21年)5月3日 - 1948年(昭和23年)11月12日)とは、広田弘毅・東条英機元内閣総理大臣など日本の指導者28名が「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて「侵略戦争」を起こす共同謀議を行い[1] 、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」したとして[1]、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する
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