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  • 狗奴国 - Wikipedia

    狗奴国(くぬのくに/くぬこく[1][2]、くなのくに[3]/くなこく[4]、こなのくに/こなこく)は、中国の三国時代の歴史書『三国志』(西晋の陳寿の作)のうちの『魏書』の中の「東夷伝倭人の条」に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国である。『後漢書』東夷伝では拘奴国と表記する。 概説[編集] 3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。その名称からも、元は奴国の分国であるという説[5]もある。 男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ、ひみくこ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説がある)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」と戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。 読み下

  • 倭国大乱 - Wikipedia

    倭国大乱(わこくたいらん)は、魏志倭人伝において記述が見られる、2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる争乱。 倭国の領域は特定されていないが、考古学的にはそれまで大陸との交易により圧倒的に優勢だった北部九州勢力に対して、後の出雲国や吉備国にあたる地域に纒向型前方後円墳の出現に繋がる大規模な弥生墳丘墓が出現する時期と重なるため、列島規模で行われた日史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。 卑弥呼を日書紀に箸墓古墳の被葬者として伝わる倭迹迹日百襲姫命と同一視する立場から、記紀における百襲姫の存命中に起きた戦乱として武埴安彦の反乱や武渟川別による出雲振根誅殺、吉備津彦命による温羅討滅を倭国大乱あるいはその一部の出来事に比定する説が存在する。 他に出雲の国譲り神話や神武東征伝承に比定する説もある。 概要[編集] 中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『

  • 邪馬台国 - Wikipedia

    邪馬台国(やまたいこく/やまとこく、旧字体:邪󠄂馬臺國)は、『三国志』魏志倭人伝に伝わる3世紀ごろの倭の国。卑弥呼が治めていたことで知られており、台与などの女王を立ててきた国とされている。 古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日国内の史書には、邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載が無い。所在地について、今も議論が続いている。 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。 なお、現存する三国志の版では「邪󠄂馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱

  • 弥生時代 - Wikipedia

    弥生時代(やよいじだい、旧字体:彌生時代)は、日列島における時代区分の一つであり、「日糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代[1]」とされる。年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる[2][注釈 1]。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日各地で広域地域勢力が形成され[3]、2世紀末畿内に倭国が成立した[4]。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。 名称 弥生土器 「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に弥生町遺跡[注釈 2]で発見された土器が発見地に因み「弥生式土器」と呼ばれたことに由来する[5][注釈 3]。当初は「弥生式土器」の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれたが、その後佐原真の提言などで土器や年代の名

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