第12回菊池寛賞(1964年、のちに返却) 第11回JCJ賞(1968年) 第22回毎日出版文化賞(1968年) ボーン・上田記念国際記者賞(1969年) 第3回大同生命地域研究賞特別賞(1987年) 長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる[1][† 2]。 長野県飯田高松高校卒。高校3年次の担任はのちに日本古生物学会の会長を務めた鹿間時夫であった。同級に富永明夫がおり、後に本多の義兄となった[3]。 本多には脳性小児麻痺の妹がいた。父は雑貨商を営んでおり、本多には薬科大学に進むことで薬局を加えた店の跡を継いでほしいと願っていた。本多は高校で木原均の講演に感銘を受け、京都大学で遺伝学を学びたいと考えた[4]ため、父と衝突した。結局、薬剤師の資格を取得すれば好きなことをやってもよいとの妥協案を受け入れ、千葉大学薬学部に進学。 1954年、千葉大を卒業して京都大学農学部農林生物学科へ1