若い頃の一時期、私は激しく埴谷雄高の『死霊』に憧れた。そして、その存在のありように自分を同一化させたいと思った。その思考と言葉がもつ重みと力に、徹底的に感応すること、そこに示されていると感じた精神の高みを自分のものとすることを望んだ。 『死霊』を紹介する導入として、7章の「最後の審判」の一部を見てみたい。この小説は、基本的に登場人物たちが観念的な形而上学的な議論を延々と語る構成となっている。ここでは世界宗教の教祖たちに対しての、ある近代的日本人の精神が示す徹底的な拒絶と軽蔑、そして弾劾が示される。 イエスを責めるのは、「復活したのちにも飢えに飢えきったお前にまず最初の最初に食われた焼き魚」であり、最後の晩餐で食された「容赦なくこまかく微塵にひかれた小麦の粉」であり、「無残に砕き踏みつぶされた葡萄の粒」であった。そして、釈迦は「苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも固い歯と歯のあいだで俺自