8月 10, 2011 (中国通信=東京)太原10日発新華社電によると、中国で最も保存状態の良い遼代の古城である旧広武城は建設から1000年の歳月がたち、一部の城壁の崩落が始まっており、女児壁は消滅した。現在、旧広武城の第1次大規模修復計画が急ピッチで進められている。山西省山陰県文物観光局が明らかにした。 山陰県文物観光局弁公室の李小君主任は次のように述べた。今回の旧広武城の修復は、城壁と2基の小城郭に対する修復保護が重点になる。東側と北側は853メートル、西側と南側は848メートルで、全長は1701メートルに達する。修復は2期に分けて実施され、1期工事は基本的に準備が終わり、いつでも着工できる状態にある。 李主任は「旧広武城に対して大規模な保護修復が行われるのは今回が初めてのことで、これまでは小規模で緊急的な修復しか行われてこなかった」と説明した。今回の修復工事の投資総額は約1500万元
7月 29, 2011 (中国通信=東京)フフホト29日発新華社電によると、中国社会科学院考古研究所と内蒙古自治区文物考古研究所の合同発掘チームは先ごろ、千年前の契丹族の遼国皇城の発掘調査を開始した。 今回の調査は主に、遼国の都だった上京皇城の乾徳門で発掘を行う。発掘面積は約2000平方メートル、予定期間は3カ月。関係者は新たな発見があると期待している。 上京遺跡は内蒙古自治区ウランハド市バイリン左旗に位置し、918年に建設が始まり、後の金王朝もこの城を利用ししたため、計300年あまり都として機能したが、元王朝の初期に廃棄された。 上京遺跡の建築規模は壮大で、敷地面積は13・5平方キロ、城壁の高さは7メートルにのぼり、皇城と漢城に分かれていた。そのうち皇城は契丹族の統治者の宮殿と役所が置かれていた。今回発掘が行われる乾徳門はその西側の城門にあたる。 1930~40年代、日本人が上京遺跡の発
7月 5, 2011 (中国通信=東京)西安5日発新華社電によると、陝西省咸陽市考古研究所は先ごろ、同市渭城区渭城鎮坡劉村で戦国時代の秦国の墓群を発見した。そこから出土した青銅の壺には液体が残っており、当時の酒の可能性があるという。 考古学関係者は次のように説明している。出土した壺は古代の酒器だが、発見したとき栓がなく、振ってみたところ、中に液体が半分くらい入っているように感じた。壺にはもともと木の栓があったとみられるが、非常に長い時間のうちに栓が炭化して壺の中に落ちたと考えられる。しかし壺の口は土の塊でふさがれたため、蒸発しなかったとみられる。関係者がストローで一部吸い上げてみると、液体は透明だったが、香りはまったくなかった。現在、液体の鑑定が行われている。 この墓群は合計9基で、その一つの直線洞室墓の中の墓穴には木棺が残っており、中から1体の人骨が見つかった。これは男性のもので、40~
6月 29, 2011 (中国通信=東京)石家荘28日発新華社電によると、河北省武安市冶陶鎮固鎮村の邯長鉄道(邯鄲~長治)複線化工事の現場で先ごろ、保存状態が良く、盗掘されていない戦国~漢代の墓が見つかり、貴重な遺物が出土した。 専門家によると、墓は戦国晩期か秦朝のものとみられ、中原地区では珍しいものだという。印章は秦代の官印として作られたもので、文字は識別できず、墓主は秦の貴族か武将の可能性がある。 墓は竪穴式土坑墓で、遺体は四肢を曲げた状態で横向きに埋葬されており、内棺と外棺に収められていた痕跡がある。出土した遺物には青銅製の鼎、皿、壺などの器と青銅製の環、帯留め、印章、白玉の鳳凰、青玉の剣の柄、白玉の装飾品などの玉器、さらに口縁部に銀がはめ込まれた器物もあり、漆器か木器の可能性がある。このほか副葬品として土器製の壺、皿、碗などが出土した。 高さ40センチの壺は、頸部が長く、腹部が丸く
6月 24, 2011 (中国通信=東京)石家庄12日発新華社電によると、今年から始まった干ばつと雨量の少なさにより、下流の天津や河北省唐山での水使用量が増え、河北省潘家口ダム内の「水中の長城」の本体部分がこのほど再び水面に現れた。 高く険しい山々の間を延々と続く万里の長城は、河北省寛城満州族自治県潘家口ダム内で水中に潜り、非常にまれな「水中の長城」の奇観を形づくっている。 500年余り前に建設された喜峰口、潘家口の城(とりで)は、中国明王朝の長城の重要な関所。当時、中原と北彊や東北の辺境の地を結ぶ交通の要衝であり、この辺りの長城の長さは約50キロ、のろし台は延べ21基あった。 1975年、中国政府がこの地に建設した華北地区最大の重点水利プロジェクトである潘家口ダムの貯水後、水位は長城の高さを超え、喜峰口、潘家口の城が水没した。以来五百年の歳月、長城は水の中に姿を隠していた。 ここ数年来、
6月 22, 2011 (中国通信=東京)西安22日発新華社電によると、西安市の文化財保護部門は先ごろ、不動産開発プロジェクトの工事現場で発掘調査を行い、17基の墓を発見した。うち1基は元代の1夫3妻合葬墓で、西安地区の元代考古研究に貴重な資料を提供する発見となった。 今回発掘された17基の墓は、漢代のものが9基、唐代のものが6基、元代のものが2基だった。元代墓2基は埋葬様式が同じで、保存状態が良く、出土遺物が豊富だった。M6号墓と名付けられた一方の墓の墓志銘には元代の張弘毅と3人の妻の合葬墓であることが記されていた。 墓志銘の記載によると、張弘毅は、字が達夫で、至元5年(西暦1339年)6月22日に死去し、66才だった。張弘毅は生涯4人の妻を娶り、最初の3人の姓は武、李、趙で、張弘毅より先に死去していたため、M6号墓に合葬されたという。
6月 22, 2011 (中国通信=東京)石家荘22日発新華社電によると、南水北調プロジェクト(水が不足している北京や天津などの中国北部に長江の水を導水する事業)の実施にあわせて、河北省の考古関係者は永年県申氏家族墓で5カ月にわたる緊急発掘を行い、明清時代の墓191基を発掘し、787点の遺物を掘り出して、当時の埋葬習慣の研究に大量の資料を提供した。 申氏家族墓は永年県メイ(江の工を名に)関鎮大油村の南部にあり、墓地の面積は約4万平方メートル。墳墓は1000基を超え、現地では「申家墳」と呼ばれている。墓地は山のふもとの丘陵地帯にあり、東側、南側、西側の3面は明山などの太行山脈の山々に囲まれている。 南水北調の工事が「申家墳」の一部にかかっているため、現地の考古関係者は昨年の5~7月期と11~12月期に、2度の緊急発掘を行い、土器、銅銭、墓志銘、石碑などを含む787点の遺物を掘り出した。 専門
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く