劉封はもと羅侯の寇氏の子にして、長沙劉氏の甥なり。 先主荊州に至り、未だ継嗣あらざるを以て封を養い子と為す。 自分これまで劉封の出生を「羅侯の寇氏の子」「異姓養子」という印象を強く持ちすぎて、長沙劉氏の甥であるという設定を完全に見逃していました。関さんが余計なこと言うから・・・。 ですから異姓養子と言えども実際には―ツイッターでT_Sさんに指摘していただきましたが、「母族の養子になってその母族の跡を継ぐ」という、当時ではそう珍しくもない事例だったんですね。そして養子にした当時には劉備に子がおらず、またその後にも嫡子はとうとう生まれませんでしたから、劉封にもワンチャンスがあったかも知れませんね。 ところで気になるのは劉封の母方系統「長沙劉氏」です。 長沙で劉氏とは言わずもがな、景帝の皇子、長沙定王劉発を思い出させます。その傍系から光武帝や更始帝が出た、あの長沙王家です。 長沙王家は後漢初まで