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ブックマーク / call-of-history.com (29)

  • 「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著

    ビスマルクというと最近はすっかり第二次大戦中のドイツ海軍の戦艦、しかも美女ということになっているが、元々は鉄血宰相として知られた十九世紀プロイセンの政治家、ドイツ帝国建国の立役者で、芸術的な外交手腕で欧州にビスマルク体制として知られる勢力均衡を生み出したオットー・フォン・ビスマルク(1815~98)のことだ。彼の存在感は絶大で、日の明治維新の元勲たちもこぞって彼に憧れ、彼を範として近代国家建設に邁進した。 ビスマルクは確かにすごかった。十九世紀欧州政治に冠絶した存在であった。しかし、その手腕や影響力は実際どんなものだったのだろうか。ビスマルクの評価についてはその死後から、国民的英雄として神話化するものから後のヒトラーに繋がるナチズム的支配体制を築いたと断罪するものまで紆余曲折、激しい論争を経て、実証的なビスマルク像が形成されてきたのだそうだ。書は、近年の研究成果を踏まえて、等身大の政治

    「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著
    nakakzs
    nakakzs 2015/10/17
    まあドイツはこの後の歴史の流れも踏まえるとさらにいろいろ面白い。
  • 「遠山金四郎の時代」藤田 覚 著

    時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」、桜吹雪の刺青を彫った遊び人で悪党どもをバッタバッタとなぎ倒して人情味のある判決を下す庶民派お奉行様というキャラクターが確立しているが、まぁ、言うまでもなくこれらは全て創作である。では実際の「遠山の金さん」こと町奉行遠山景元はどのような人物であったか、天保の改革を主導した老中水野忠邦との対立を軸として歴史の中の遠山景元を描くことで江戸時代後期のダイナミックな変化を浮き彫りにして、彼の業績の中に「遠山の金さん」イメージに繋がる要因を探る一冊である。 目次 第一章 遠山の金さん像の虚実 第二章 繁栄の江戸か寂れた江戸か 第三章 寄席の撤廃をめぐって 第四章 芝居所替をめぐって 第五章 株仲間解散をめぐって 第六章 床見世の撤去をめぐって 第七章 人返しの法をめぐって 第八章 近世後期の町奉行たち 第九章 「遠山の金さん」の実像 景元は寛政五年(1793)、下級

    「遠山金四郎の時代」藤田 覚 著
    nakakzs
    nakakzs 2015/10/06
    歌舞伎などを郊外移転という形ながら守ったことが、芸術分野で遠山景元が正義の人となって、弾圧した鳥居耀蔵が(それ以外の言動もあり)真逆の扱いを受けたという庶民文化史的からの評価視点もあるかなと。
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
    nakakzs
    nakakzs 2015/07/28
    そしてのど元を過ぎた頃、歴史はまた繰り返す。オリンピックも騒動になる前は、無限に金が湧き出る泉みたいに政治家は思っていたのでは。奈良引き返せ「さ」なかった理由も見える。
  • 「総員玉砕せよ!」水木しげる著

    漫画家水木しげる自身の戦争体験を元にしたニューブリテン島ズンゲンでの日軍玉砕を描いた作品。 1942年、日軍はニューブリテン島を占領すると周辺地域等含め約10万の兵力が投入され軍事拠点が築かれた。ラバウル航空隊と呼ばれる航空部隊の部等が置かれ難攻不落のラバウル要塞として連合軍に警戒されたが、米陸軍司令官マッカーサーは正面からの攻撃は困難と見ると、包囲と爆撃にとどめてラバウル要塞攻撃を回避、日軍が手薄なサイパン島等土攻略に重要な拠点に戦力を集中することでラバウル要塞を孤立させ無力化していった。 水木しげる(武良茂)は昭和十八年十月、成瀬懿民少佐率いる臨時歩兵第二二九連隊支隊麾下の第二中隊(児玉清三中尉)に配属され、そして昭和二十年、成瀬少佐は連合軍の攻撃を受け玉砕命令を下すが、児玉中隊長は玉砕命令を拒否してゲリラ戦に転じ、そのおかげで水木しげるは激戦の中で左腕を失いつつも九死に一生

    「総員玉砕せよ!」水木しげる著
    nakakzs
    nakakzs 2015/06/09
    バカが上に一人いたら、あと全員がまともでもそれに引きずられて悲劇が起こるというのは歴史上よくある。輪をかけて最悪な場合、そのバカが生き延びて自己弁護して逃げ切る。牟田口。
  • 「敗走記」水木 しげる 著

    1970年に発表され、のちの「総員玉砕せよ」につながる水木しげる戦争漫画の代表作のひとつ。表題の「敗走記」のほか「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「KANDERE」「ごきぶり」「幽霊艦長」が収録。数年ぶりに再読して、ふと感想書いていなかったことに気付いたので、その中から特に面白かった、「敗走記」「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「幽霊艦長」の感想を簡単にメモ。 人の経験もあるが基的には真山という水木の友人の体験を中心に構成された作品だが、主人公は「水木」とされている。昭和十九年南太平洋ニューブリテン島で孤立した主人公「水木」の脱出劇で、とにかく絶望的な状況で九死に一生を得る過程が描かれるのだが、命からがら逃げ延びた彼に、司令部は酷い対応をするのだった・・・ 最後の「戦争は 人間を悪魔にする 戦争をこの地上からなくさないかぎり 地上は天国になりえない」というコメントは、その後の水木しげる

    「敗走記」水木 しげる 著
  • チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?

    モンゴル帝国の建設者、「蒼き狼」の異名でも知られる歴史上屈指の「世界征服者」というと、チンギス・・・カン?ハン?カーン?ハーン?ということで、混乱する彼の称号について簡単にまとめ。 歴史学上正しい呼び方はチンギス・カン結論からいうと、歴史学上正しいのは、ちょっと前までチンギス・ハンだったが今はチンギス・カンである。 「カン(ハン)」はトルコ系・モンゴル系遊牧民が用いていた称号で王や族長を表す。ここでやっかいなのがモンゴル語の発音では丁度「カ」と「ハ」の間の発音であることで、時代によってカに近かったりハに近かったりするが、近年の研究でチンギスが生きていた十三世紀は「カ」に近い音だったことがわかった。一方で、現代モンゴル語ではカンではなくハンと発音するが、モンゴル史では当時の発音に則ってほぼ「チンギス・カン」と呼ぶことが定着しつつある。 また、「カーン(ハーン)」について、それぞれの部族の長が

    チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?
    nakakzs
    nakakzs 2015/04/19
    呼び方がその場や時の学説の主流とかの影響で変わるのは歴史の常だしの。「護良親王」だって俺等の頃は「もりなが」だったが、今は「もりよし」で教えてるらしいしその他安倍晴明とか色々。
  • 「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」家近 良樹 著

    ペリー来航から大政奉還・王政復古・鳥羽伏見に至る江戸幕府解体の過程は長く西南雄藩を中心にしての見方が支配的だったが、1980~90年代以降、幕府朝廷・朝敵諸藩に関する研究が進み、勝者側である薩長中心の王政復古史観に批判が加えられ、より大局的に幕末を考える視点へと研究の主軸が移ってきた。 その中で非常に重視されるようになった幕末の勢力に一橋慶喜・会津松平容保・桑名松平定敬による「一会桑」がある。近年では大河ドラマでも当たり前のように使われているし、概ね一般的になってきているのではないだろうか。近年の主流となりつつある「一会桑」を提唱したのが書の著者家近良樹教授で、その「一会桑」とやはり再評価されてきた孝明天皇の朝廷の動きを中心に据えて幕末政治史を捉え直したのが書である。2002年に新書として発売されたものに改訂が加えられて2014年に講談社学術文庫から再発売された。 武力倒幕を目指す西南

    「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」家近 良樹 著
    nakakzs
    nakakzs 2015/04/11
    このへんって新撰組とか志士とかの視点で描かれることは多いけど、こういう既存組織的な面からの政争とかはあんま描かれないからなあ(題材にするの難しいし)それだけにあまり知られてないところが興味深い。
  • ケープ植民地から南アフリカ連邦成立までの歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    アパルトヘイト体制成立に至る南アフリカ史の簡単なまとめで、とりあえず1910年の南アフリカ連邦の成立までを大まかに。 オランダ領ケープ植民地十五世紀末まで南アフリカはヨーロッパと隔絶された地であったが、1497年ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でのインド航路を開拓すると、まずポルトガルが、続いて十六世紀末までに欧州諸国が相次いでアジアへと進出する。南アフリカは航海の難所であったため補給地としてそれほど重視されていなかったが、十七世紀に入り、スペインとオランダとの海上覇権争いが熾烈なものとなると、オランダ東インド会社(VOC)は南アフリカに中継拠点を築くことを考え、1652年、ヤン・ファン・リーベックによってケープ半島とテーブル湾一帯に植民地(オランダ領ケープ植民地)が築かれた。 当初のVOCの目的は現地民との交易で船舶の水・糧や薪等を調達することだったが、周辺のコイコイ人部族にはそのニーズ

    ケープ植民地から南アフリカ連邦成立までの歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について

    こちらも以前読んだのだが、当時の娼妓の生活が垣間見えてとても興味深い内容になっているので当時の風俗を知りたい人にはとてもオススメ。学歴は無いが石川啄木の詩集片手に逍遥するような文学少女だったらしく、日記の端々から溢れ出る光子の知性と教養が、過酷な生活の中で、いや、だからこそ輝いていて尊厳すら感じさせる。 「東京の下層社会」では光子の稼ぎは月300円程度としているが、日記ではある月の娼館での娼妓売上ランキングが紹介されていて彼女は408円を売り上げて第五位に入っており、四位とは6円差に対して六位とは40円差なので、同館でも人気の花魁さんだったらしい。日記を読んでいても非常にクレバーな受け答えをしていて、確かに人気が出るだろうなと思わされる。 例えば、女工に比べれば娼妓は好きな着物来て、性欲にも不自由せず楽なもんだろうと偉そうに見下して言ってくる客に対しての痛烈な返し。 『妾(わたし)達を御覧

    大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について
    nakakzs
    nakakzs 2015/04/05
    以前、「朝日新聞を糺す国民会議」が日本外国特派員協会で「日本の歴史に奴隷はいなかった」とか言ってたけど、このあたりの歴史を知らないのか意図的に無視しているのか。
  • アニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」感想

    アニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」最終話まで観ました。艦娘たちが動いて喋っているだけでも嬉しいので次々出てくる娘たちの一挙手一投足にニヤニヤしつつも、各話の展開にちぐはぐな印象は拭えず、楽しい気持ちと苦笑との間を忙しく行き来しながらの視聴になりました。 吹雪さんと睦月夕立のメイン三人を始めみんな可愛くて上々ね、って感じでしたが特に陸奥、利根、川内、夕張、瑞鶴、金剛と第六駆逐隊あたりは非常に良かった。むっちゃん最高に美味しいポジションだし、利根ねーさんまじ利根ねーさんで三話最後の色々思いやる複雑な表情は最高だし、川内さんもただの夜戦バカではなく頼れる先輩で惚れ惚れしたし、夕張も貧乏クジ引いたけどなんだかんだ魅力的に描かれているし、瑞鶴は七話の翔鶴姉とのやりとりでの加賀さんへのデレが珠玉、かわいすぎる、また金剛ちゃんはこんなに母性溢れるキャラに描かれていてああ素晴らしい。あ、大淀さんは出撃

    アニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」感想
  • 「武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで」近藤 好和 著

    『「武具」とは、戦闘の道具である攻撃具と防御具を総称した歴史用語である。』(P12) 近代以降、攻撃具の劇的な発達によって防御具が衰退し、攻撃具が『個人使用の小型の攻撃具』であるところの「武器」と『大型かつ大規模な攻撃具』であるところの「兵器」と呼ばれるようになっていく。ただし元々は「武器」も「兵器」も用例は少ないものの防御具を含む歴史用語ではあったそうだ。その、前近代までの日の武具の歴史をコンパクトにまとめた一冊。 まず、武具には儀仗と兵仗がある。儀仗は儀式用・神具で兵仗は実戦用となる。書で説明されるのは後者の兵仗の方だ。攻撃具は「弓箭(ゆみや)」「鉄炮」などの飛び道具と「刀剣」「長柄」などの衝撃具に大別され、防御具は「甲(よろい)」と「冑(かぶと)」に大別され、他に「小具足」と「盾」がある。さらに古代の「刀」は「たち」、中世以降は「かたな」となるし、直刀か彎刀かで直刀は「大刀」彎刀

    「武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで」近藤 好和 著
  • 「シャーマニズム(「知の再発見」双書)」C・ステパノフ&T・サルコンヌ著

    シャーマニズムがよくわからない。いくつかの宗教学の入門書の知識と、例えば琉球・南西諸島のユタ、東北のイタコ、卑弥呼などに代表されるような古代の巫女、アメリカ・インディアン、アフリカの呪術師、アボリジニ、ブードゥーなどを想起した一般的なイメージを持っている程度なので、最近(2014年)出たばかりのコンパクトなシャルル・ステパノフ&ティエリー・サルコンヌ著「シャーマニズム(「知の再発見」双書)」というを読んでみたが、よりわからなくなった。 シャーマニズムとはなにか。「平凡社 世界宗教大事典(1991年)」にはこうある。 『通常、トランスのような異常心理状態において超自然的存在(神霊、精霊、死霊など)と直接に接触・交流し、この間に予言、託宣、卜占、治病、祭儀などを行う人物(シャーマン)を中心とする呪術・宗教的形態である。』(P851) もう少し端的な説明として、脇平也著「講談社学術文庫 宗教

    「シャーマニズム(「知の再発見」双書)」C・ステパノフ&T・サルコンヌ著
  • 河村瑞賢~近世日本の大海運網を確立させた強欲商人

    序章近世の日経済史を語る上で必ず画期となされるのが、東廻り海運、西廻り海運という航路の確立である。両航路が開かれたことで「天下の台所」大阪、大消費都市江戸の繁栄を支える大物流網が整備されることになり、江戸経済繁栄の礎となった。 この両航路を開いたのが豪商・河村瑞賢である。江戸時代の商人というと近江商人などのように高い理念や思想性が話題になるが、瑞賢は全く正反対、強欲さと野心、手段を選ばぬ利潤追求の人であった。 瑞賢は元和二年(一六一八)、伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の百姓太兵衛の長男として生まれた。河村家は自称藤原秀郷の後裔で頼朝の奥州征伐で軍功を挙げ戦国時代には北畠氏に仕えたと言うが、おそらく作り話であろう。太兵衛には男だけで九人の子があり、自ずと生計を外に求めざるを得ない貧農であった。後の瑞賢、河村十右衛門は十五歳になると江戸に出て、まず車力(大八車で荷を運ぶ運送

  • 「心霊の文化史ースピリチュアルな英国近代」吉村 正和 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて英米を中心に隆盛を迎えたのが心霊主義(スピリチュアリズム)である。近代的な思想運動として始まった心霊主義は第二次大戦後衰退するものの、60年代のニューエイジ、70年代のオカルトブーム、80年代以降の新宗教運動などを始めとして文化、学問、思想など現代社会の隅々に大きな影響を残している。その心霊主義はどのような過程で広がっていったのか、十九世紀の心霊主義進展の見取り図を描く一冊である。 心霊主義の見取り図といっても、その範囲はあまりに広く、その思想は限りなく深く難解だ。様々な研究書・概説書が出ており、そのアプローチは多様である。書では心霊主義を『合理主義という時代環境の中で誕生史、成長し、変容していった<自己>宗教の一つ』(P9)と捉え、『心霊主義の社会精神史的な意義を(ⅰ)骨相メスメリズム、(ⅱ)社会改革、(ⅲ)神智学(ⅳ)心理学(ⅴ)田園都市という五つ

    「心霊の文化史ースピリチュアルな英国近代」吉村 正和 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー

    伊藤大一(2003)「ブレア政権による若年雇用政策の展開 若年失業者をめぐる国際的な議論との関連で」、同じく伊藤大一(2003)「イギリスにおける「アンダークラス」の形成 ブレア政権における雇用政策の背景」において、英国のアンダークラスとは何か、についてMacDonald.R.(1997)の説を以下の通り紹介している。 『「アンダークラス」とは、「社会的、経済的変化――特に脱工業化(de-industrialisation)――や、文化的行動諸パターンを通して、一般に正規に雇用された労働者階級や社会から、構造的に分化され、文化的に区別されるようになった階級構造の底辺に位置付く人々の社会グループないしは階級であり、かつ現在では、固定的に福祉給付に頼り、ほぼ永続的によち貧しい諸条件や地域の中で、生活するように限定された社会グループないしは階級のことである」』 統計上の失業者であると同時に、就業

    イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 昭和五年のスラム街もらい子大量殺人事件「岩の坂事件」

    明治から昭和初期にかけての東京の貧困層に関するルポルタージュをまとめた紀田順一郎著「東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)」に、当時横行した「もらい子殺し」の代表的な事件「岩の坂事件」について詳述されている。 昭和五年(1930)四月十三日午後六時ごろ。板橋町下板橋の医院に生後一ヶ月前後の男児の遺体を抱えた近所の岩の坂に住む作業員福田はつ(40)と、中年男性小倉幸次郎が訪れる。小倉はその男児の実母で同じく岩の坂に住む念仏修行尼小川キク(35)の内縁の夫だと言う。 彼らが医師に言うには、キクが乳をやっている際に誤って圧殺してしまったので診断書を書いてほしいという。不審に思った医師は彼らに「あとで診断書を書く」と伝えて帰し、そのまま板橋署に連絡。検死の結果「掌による圧殺」と断定し同日中に小川キクと小倉幸次郎を拘引し、厳しく追及すると嬰児を窒息死させたことを自供する。 当時、妊娠中絶は技術的、社会的

    nakakzs
    nakakzs 2014/09/19
    寿産院事件もあった。歴史でもあり、現代事件簿でもあるこのあたりの事件史。
  • 「世界戦争 (現代の起点 第一次世界大戦 第1巻)」山室信一 他編

    第一次世界大戦勃発から百年目を迎え、同大戦に関する書籍が多数出ているが、その中でも全四巻とかなりまとまったボリュームで出されたシリーズの第一巻。とりあえず第一巻だけ読んだ段階だが、面白い。 『第一次世界大戦を日とアジア、ヨーロッパ、アメリカそしてイスラーム世界やアフリカといった空間範囲間の相互交渉過程のなかで捉え』(P5)、『第一次世界大戦のもった「世界性」の意義を改めて問い直す』(P4-5)との趣旨で第一次世界大戦を「世界性」「持続性(現代性)」「総体性」をもった現代の起点として総括したシリーズということのようだ。第一巻ではヨーロッパを舞台として起きた戦争が世界各地に波及して「世界戦争」へと突入していくその過程と、第一次世界大戦での各地の様子を、九つの章と六つのコラムを通じて描いている。 特に興味深かったのは石井美保『イギリス帝国とインド人兵士――「マーシャル・レイス」にとっての第一次

    「世界戦争 (現代の起点 第一次世界大戦 第1巻)」山室信一 他編
  • バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ

    ヴィッテルスバッハ家前史ヴィッテルスバッハ家はドイツの名門で、主にバイエルンを738年に渡って統治した王家として知られる。現在のドイツ南部一帯バイエルン州は遡ると六世紀、フランク人の部族アギロルフィング家の統治に始まり、八世紀、タシロ3世(在位:749~88)が小ピピンに臣従し、その後シャルルマーニュに反旗を翻したことで追放され、以後カロリング朝東フランク王国、ルイトポルト家などを始め、統治者が次々と入れ替わった。 ヴィッテルスバッハ家の統治下となるのは1180年。当時バイエルン公は勇名で知られたザクセン獅子公ハインリヒ3世で、獅子公はイタリア遠征を巡って赤髭王(バルバロッサ)こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位:1152~90)と対立、怒った皇帝は獅子公からバイエルンを取り上げて、ヴィッテルスバッハ家のオットーに下賜し、彼はバイエルン公オットー1世(在位:1180~83)となった。以

    バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ
  • 豊臣軍撤退後の朝鮮半島における明国軍駐留問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1598年十一月、朝鮮半島から日軍は完全に撤退し、豊臣秀吉の朝鮮出兵(「文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)」)は完全に失敗に終わった。日軍撤退後の戦後処理で朝鮮半島において懸案となったのが明国軍駐留問題であった。以下、中野等著「文禄・慶長の役 (戦争の日史16)」を参考にしつつ、簡単にまとめ。 ※以下西暦記述。1598年=日:慶長三年、朝鮮:宣祖三十一年、明:万暦二十六年 大きな被害を出して撤退を余儀なくされ講和締結が最優先課題となっていた豊臣政権だが、秀吉死後の集団指導体制に移行してもなお、外交上は強気な姿勢を崩していなかった。李氏朝鮮政府に対し講和条件として戦時中と同様の朝鮮の王子・廷臣の日派遣を提示し、日来訪があれば朝鮮人捕虜の解放、もし受け入れられなければ朝鮮再侵攻を伝えてくる。もちろん、当時の国内情勢を見れば、関ヶ原へと至る政権崩壊の過程にあり再侵攻の余裕など全く無

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    nakakzs 2014/07/28
    このあたりの不安定な国際情勢は、日本の当時の政治(例の柳川一件とか)にも大きくかかわってきているのかもなと。
  • 「田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし」藤田 覚 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十八世紀後半、江戸幕府の権力を掌握して様々な政策を断行し、通称田沼時代と呼ばれる一時代を築いた老中田沼意次(1719-1788)の評伝である。意次失脚後から現代まで脈々と続く悪徳政治家のイメージや、近年そのイメージへのカウンターとして登場した清廉な政治家としてのイメージのいずれからも距離を置いた、十八世紀後半という時代背景の中で生き、また時代をつくった田沼意次像を描いている。 田沼は、すくなくとも賄賂を受けいれている例もあり清廉潔白とは言い難いし、脇の甘さも目立つようだが、当時の多くの政治家たちも同様でもあり、特段悪質という訳ではないようだ。清廉潔白と呼ばれているような人――たとえばザ・清廉潔白な松平定信も――でも、大なり小なり贈収賄的なやりとりを行っている。そして、田沼の人柄の指摘が面白い。 当時の権力者たちに通じる特徴として、「権勢を誇らず」という点があるらしい。意次に限らず、当時の権

    「田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし」藤田 覚 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    nakakzs
    nakakzs 2014/07/01
    そして綱紀粛正の名の下に表現や文化が規制される松平時代となり、あとに濁れる田沼今は恋しきと詠まれるわけで。未来が現在より絶対よくなる保証などないのは、近年を見ても。