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ブックマーク / www.medieviste.org (17)

  • 2023年の三冊

    (bib.deltographos.com 2023/12/28) 年末ともなると、「今年の三冊」「今年の五冊」みたいな、年間まとめ企画が新聞や雑誌を賑わせますよね。今まで、ランキングはあまり意味ないかもと軽視していたのですが、最近、自分用にまとめておくのも悪くないかなと思うようになりました。目がしょぼくなり、読書量も大幅に減ったりして、逆にそういう「厳選」みたいなものに価値を見いだすようになってきたようです。人さまが選んだリストも興味深く思えてきましたし、個人的にも年間まとめを記しておくのもいいかな、と。 というわけで、まとめておきましょう。個人的に、今年読んだものでとりわけ印象的だったのは、次の三冊になります(ジャンルや出版年度などは無視することにします)。 グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022) ローラン・ビネ『HHhH』(高橋啓訳、東京創元社、文

    2023年の三冊
  • 民主主義の冒険のために

    挑発的なタイトルに惹かれて読んでみた、デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について』(片山大右訳、以文社、2020)。一般通年的に古代ギリシア起源とされる民主主義だが、その起源の設定は後付けのものではなかったか、という論考。たしかにアリストテレスなどは、専制制、寡頭制に対する民主制を、混乱を導きやがては専制を招く悪しき政体として批判していた。つまりアテネ出自とされる民主制は当初、必ずしも高い評価がなされていたのではなかったし、西欧のその後の体制(王政など)においてそれはつねに一蹴されてきたものであって、のちの共和政になってからも、民主主義の名で語られるのは暴動・反乱であって、決して理想的な政治体制ではなかった。 民衆全体による合議というかたちは、実は古代ローマだけでのものではなく、著者によると、おそらく小規模の共同体が最初にとるコンセンサスに基づく社会に広くみられるものだった。古代

    民主主義の冒険のために
  • 概念は分裂を呼ぶ……

    すっかり形骸化してはいるものの、5月1日はメーデー。これに向けて(というわけでもなかったのだけれど)、少しばかりフランスの社会史・政治史に絡んだものに目を通しているところ。さしたあり見ているのは、ジャック・ドンズロ『社会的なものの発明』(真島一郎訳、インスクリプト、2020)。まだざっと3分の2ほど。原書は最初の版が84年刊、底になっているものが94年刊。 これが面白いのは、一つの概念の導入が、ほどなく両義的な意味合いに分裂し、相互にせめぎ合うようになるという視点を一貫して保ちながら、そうした概念の歴史的な展開を分析していくところ。メソッド的に一貫している、ということか。まず最初の章では、「社会的なもの」の成立をめぐる分析が展開するが、そこでは、社会的なものの合意の内部に分裂をもたらすことが問題とされる。「社会的なもの」というのはそもそも来的に欠損しているのだが、そこになんらかの概念を

    概念は分裂を呼ぶ……
    namawakari
    namawakari 2020/05/01
    “一つの概念の導入が、ほどなく両義的な意味合いに分裂し、相互にせめぎ合うようになるという視点を一貫して保ちながら、そうした概念の歴史的な展開を分析していくところ。メソッド的に一貫”弁証法
  • 批評の捉え方

    今週はこれを読んでいた。ノエル・キャロル『批評について――芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房、2017)。キャロルは分析美学の泰斗にして、芸術・映画の批評も手掛ける研究者とのこと。その大御所が同書で示すのは、自身の批評観であり、批評というものの一般的な「構え方」。それはとてもシンプルかつオーソドックスな(ある意味古風でもある)立場で、「批評とは作品の価値づけのためになされるもの」というものだ。さらにそのためには、価値づけに際して批評家はその理由を示せるのでなくてはならない、とされる。さらにまた、そこでいう価値づけとは、作品を通じて作者が何をなそうとしていたのかという、人工物における意図を問題にして評価されるのでなくてはならない、と。 なるほどこれは、ポストモダンな「作者の死」や受容価値の理論(とキャロルは述べている)などの対極にあるスタンスだ。それだけにキャロルに対する批判もいろいろ出て

    批評の捉え方
  • 構成主義vs本質主義

    「情動」などというものは都度構成されるにすぎず、あらかじめなんらかの実体として質的に存在しているのではない……。そういう主張を引っ提げて登場した一冊が、リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019)。これがなかなか痛快だ。著者は神経学者とのことだが、学際的なアプローチを取っていて、情動が最初から存在しているという「質主義」の通念を打破すべく、「構成主義」を一般に通用させようとの意図のもと、実に多彩な具体例やたとえ話を適度に交え、さらにはその先の壮大な推論に向けて、読む側を力強く引っ張っていく。 「分類しているとき(中略)人は外界に類似点を見つけるのではなく、作り出す。脳は概念が必要になると、過去の経験によって得られる数々のインスタンスを、現在の目的にもっとも適応するよう取捨選択したり混合したりして、その

  • ポロック論メモ

    ある種の抽象画というのは、アナログ時代のジェネラティブアートと言えるかもしれない。アナクロニズムではあるけれども、そんなことを思わせるものとして、ジャクソン・ポロック(1912 – 1956)の絵画がある。ポロックはアクション・ペインティングの一躍を担う存在で、塗料を滴らせるドロッピングなどの技法で知られるアメリカの画家。交通事故で56年に亡くなっているが、アルコール中毒でユング派の精神分析を受けた一時期があり、ある種、描く対象として無意識を措定していたともいわれたりする……。と、そんなわけで、筧菜奈子『ジャクソン・ポロック研究–その作品における形象と装飾性』(月曜社、2019)を読んでみた。前半は主に制作過程論で、オールオーヴァー絵画(地も図もすべて均質になった、塗料が明滅するかのような迫力ある絵画群)の製作の内実を実証的に明らかにしようとする。 興味深いのは後半の第二部。帯に示唆されて

  • 見えないものを見るために?

    年の瀬だからというわけでもないのだが、未読のままだった約半年分の岩波『世界』にざっと目を通す。とくに最新号の1月号(特集「抵抗の民主主義」)に掲載された山圭「批判なき時代の民主主義」が心に突き刺さる感じ。この論考はまず、今の時代は、フェアな土壌の上で政治的な批判や対立を示し相互に戦うことを、周到に回避するようになっていると指摘する、次いでその背景として、様々な社会的分断を見せないようにしたり、中和したりするような、各種の装置や制度の多用を指摘してみせる。ときにそれは天皇制のイデオロギー(各種の礼祭や祝賀パレードは、政治的立場や利害を超えてコミットさせるものだとされる)だったり、選挙(それは分断を見せつける仕組みだったりする)以外で民主主義を考え直そうという機運だったりする。 そうして批判や対立が弱まり、否定的なものは隅に押しやられはするけれども、ときにそれは暗部として回帰することがある。

    見えないものを見るために?
  • 「真実か否か」を超えるところ | Silva Speculationis ー思索の森

    今週はヘイドン・ホワイト『実用的な過去』(上村忠男監訳、岩波書店、2017)を読んでいる。とりあえずざっと第三章まで。ホワイトは言わずと知れたアメリカ歴史学者。長大な主著『メタヒストリー』も昨年、邦訳が出ているが、まずは取っ掛かりのよさそうな書から。基的に歴史構築主義の立場を取るホワイトは、歴史というものを専門家が練り上げる過去へのアプローチと、それ以外の一般人が判断や決断の拠り所として利用する過去とを区別し、この後者を表題にあるような「実用的な過去」と定義する。その上で、前者のアプローチで用いられる言述がきわめて「文学的」であり、そこで事実とフィクションが明確に分けられないことを指摘する。しかしながら、そのことは、たとえばホロコーストのような前代未聞の事象を前にしたときに大きな問題を突きつける。そのような虐殺行為をめぐる証言や記述が真実か否か、確証が得られなくなってしまうのである。

    「真実か否か」を超えるところ | Silva Speculationis ー思索の森
  • 言語において失われるもの

    まだちょうど半分くらいのところまでしか読んでいないが、これはすでにして名著の予感。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス——言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房、2018)。副題にあるとおり、言語の諸相において忘却されるものについての試論。忘却されるものというか、要は言語において失われるものについての検討というところ。それはたとえば言語取得に際しての幼児の喃語に見られる異質な発音だったりするだろう(1章)。けれどもその痕跡の一部はオノマトペや感嘆詞・間投詞に残存もしくは復活する(2章)。音素もときに消滅すること(4章)は、たとえばフランス語の無音のeや、hで表される各国語の帯気音の衰退(5章)に託されて語られている。言語に生死の概念を当てはめるという伝統についても検討されていて、どうやらそれがイタリア・ルネサンスに遡ることも紹介されている(7章)。「言語の死」といった生物学的メタ

    言語において失われるもの
  • 僭主が見る夢……

    僭主的なものがあちこちで勃興してる昨今(今回のフランスの大統領選はある意味その連鎖に歯止めをかけた……のだろうか?)、そのようなものにまつわる議論はとても重要になっている気がするが、当然ながら古典もそのとっかかりになりうる。というわけで、手元の積ん読から、加茂英臣『欲望論―プラトンとアリストテレス』(晃洋書房、2011)を引っ張り出してみた。で、その第二章「僭主の夢」を読む。プラトンは哲人政治を第一の理想とし、次善として法による統治を現実的なオプションとして示しているわけだけれど、体制として見るならば民主制の評価は低く、寡頭制の下に位置づけられている。さらにそのさらに下位に置かれるのが僭主制ということになるのだが、同書のその章は、そうした評価の基底をなしているのは何かという問題を検討している。意外なことに、そこでクロースアップされるのは「ミメーシス」の問題だったりする。 ミメーシスの構造に

    僭主が見る夢……
    namawakari
    namawakari 2017/05/11
    “ミメーシスが浸透した社会とは、「不必要な欲望」さらには「不法な欲望」が渦巻く社会になるしかない。”
  • 中国思想の言語と政治

    つい先日、プラトンの書簡集をLoeb版(Timaeus. Critias. Cleitophon. Menexenus. Epistles (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1929)で読了する。とくに重要とされる第七書簡は、よく指摘されるように、プラトンが哲人政治を理想としつつも、その現実的な変節ぶりを受けて、次善の策として法治主義をよしとするという形になっていて、『政治家』などの考え方にダブっている。執筆時期も重なっているということか。けれどもここで気になるのは、その次善の策とされる法律による支配の内実だ。プラトンは明らかに成文法による支配と考えているように思われるが、初期のころに見られた、とくに書かれた言葉に対する懐疑の姿勢(『ゴルギアス』)は、ここへきてきわめて現実主義的な対応へと転換しているようにも見える。言語への懐疑が

    中国思想の言語と政治
  • ハイデガーと革命運動

    これも年越しから。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基的にはハイデガー哲学の基図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデ

    ハイデガーと革命運動
  • (雑記)猜疑心と暴走と

    このところ、空いた時間で山崎正一、串田孫一『悪魔と裏切者: ルソーとヒューム』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ルソーとヒュームの感情のもつれが、こじれにこじれて決別にいたるプロセスを、刊行された書簡をもとにまとめたもの。文庫化のもととなったは1978年刊だそうだが、それは再版で、初版は1949年とか。歴史を感じさせる。けれども内容的にはぜんぜん古さを感じさせない。というか、とてもアクチャルでさえある。ルソーの心にめばえたごく小さな猜疑心が、とてつもなく大きな悪をたぐり寄せるふうが、なんとも痛々しい。わずかな波紋がやがては情念の大波を形成し、そうなるともはや後戻りはできない……。最初はヒュームに同情的だった著者たちが(ご人らも意外だったとコメントしているのだけれど)、やがてむしろルソーのほうに肩入れしていくあたりもとても面白い。常識人として描き出されるヒュームが、ルソーの巻き起こす情念の

    (雑記)猜疑心と暴走と
    namawakari
    namawakari 2015/02/11
    ″常識人として描き出されるヒュームが、ルソーの巻き起こす情念のうねりからすると、とても矮小なものに見えてくる、と。それもまた、ルソーの放つ怪しい波動に絡め取られそうになる、ということなのかもしれない”
  • ゴッド・マイナス

    前々回のエントリで、デカルトによる存在論的議論(神の存在証明)の話が出てきたけれど、そのあたりをめぐっていて、ちょっと面白い議論を見かけた。デカルトの議論のそもそもの原型は、アンセルムスのアプリオリな証明と言われるもの。「それ以上のものが考えられない存在」が神の定義であるとし、単に心の中にある偉大なものよりも、実際に存在するもののほうがより偉大なのであるから、その定義により神は存在することにならざるをえない、という議論なのだけれど、もちろんこれには当時から様々な反論があった。たとえば同時代のベネディクト会士、マルムティエのガウニロは、アンセルムスの議論では、神以外の任意の何であれ、それ以上が考えられない何か(ガウニロが示す例は島だ)として存在しうるはずだが、それが実在しないのは議論に問題があるからだ、と批判してみせたという(ガウニロについては英語版のwikipediaのエントリがまとまって

    ゴッド・マイナス
  • 潜行せよ、とナベールは言う……

    これは個人的に、久々に(ある意味で)心躍らされる一冊。ジャン・ナベール『悪についての試論 (叢書・ウニベルシタス)』(杉村靖彦訳、法政大学出版局)。ナベールは初めて読んだし(というか、同書が初の邦訳なのだそうだ)、そもそも名前も知らなかったのだけれど、なるほどその内省に内省を重ねていく重厚な思考と論述は、ある種のフランスの思想的伝統を感じさせる(原書は1955年刊)。確かに晦渋ではあるものの、読み手にとってはある意味、強壮剤のようなテキストかもしれない。人が抱える「悪」には、道徳的規範への侵犯といったレベルには収まらない、源的な悪というものがあるのではないか……考察はそこから始まる。なぜそう考えられるかといえば、それはなにがしかの行為や、その他のなんらかの現実に対して、「正当化できない」という感情を抱くことがあるからだ。それはきわめて原初的な感情であり、それを生み出す大元のところには、規

    潜行せよ、とナベールは言う……
  • マリオン思想への入門編

    現象学のある意味での極北(という言い方をしてよいかどうかはともかくとして)に位置するジャン=リュック・マリオン。そのマリオンの国内初の入門編となる一冊が最近出たというので早速見てみた。石野卓司『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』(明治大学出版会、2014)。三回の講演をまとめた小著だけれど、その思想の要となる「与え」(don)の現象を中心に、その主要な論点を平坦に語っていて好印象。とはいえ、贈与そのものについての議論を扱う第二講などは、比較のために持ち出しているデリダのほうにどうしても力点が置かれてしまう感じで、マリオン自体はやや霞んでしまいがちだったりもする(というのも、一般的な贈与が根源的に交換にしか行き着かないとする点で、どちらの議論もある程度オーバーラップするからだ。もちろんその先は、贈与の不可能性を説くデリダ

    マリオン思想への入門編
  • 知性単一論:「成立」の問題

    最近出たばかりの小林剛『アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ』(梓出版社、2014)にざっと目を通したところ。小著ながら、これはとても面白く読める。アヴェロエスの知性単一論がどのような様々な議論を経て提出されたのかという問題に、テキストの抜粋とそれらへの著者自身のコメンタリーを通じて接近していこうという好著。自省も込めて言えば、アヴェロエスの知性論を考える場合、ともすればほかの主要な注釈家の理論とどう違うかといった議論に始終してしまい、なにゆえに、あるいはいかにして、アヴェロエスがその議論を提出するに至ったのか、という視点が欠けてしまいがちなのだけれど(苦笑)、同書はそのあたりをきっちり押さえようと試みる。思想史の上っ面をなぞるのではなく、その議論の核心部分に追体験的に肉迫しようとしている、という感じかしら。そこがなによりも素晴らしい。導きの糸となるのは

    知性単一論:「成立」の問題
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