ひょっとしてドストエフスキーやカフカは『史記』を読んでいたんじゃないだろうか。 素人の浅はかさで、ふとそんな風に思ってしまった。だって趙高(ちょうこう)って『カラマーゾフ』のスメルジャコフみたいだし、李斯(りし)は『城』=二世皇帝にたどりつけずに、『審判』のヨーゼフ・Kみたいに、犬のように殺されてしまう。まるで「恥辱だけが生き残る」かのように。 しかし、なぜこんな短絡的な連想をしてしまうのか。それは、『史記』がすでに「法」や「官僚制」や「皇帝」の問題を先駆的に取り上げ、その容赦ない苛酷な性質を詳(つまび)らかにしているからだと思う。 スラヴォイ・ジジェク氏は、「モダニズム的なカフカ読解」を批判して、カフカの世界とは、「神の不在」によって特徴づけられるのではなく、逆に、猥褻な姿をした「神がわれわれに近づきすぎた世界」なのだと言っている。 モダニズム的なカフカ読解は、近づくことのできない、不在
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