今朝(12月28日)の朝日新聞に斎藤美奈子が書いている「『わからない』の効用」と題する文芸時評を読んで、前回書いた「『が』という地獄」に通じるところがあったので、急ぎ書いておきたい。そろそろ家の掃除だとか正月を迎える準備だとかしなければいけないのに、こんなことをしていていいのだろうか。 斎藤美奈子は「文学界」の島田雅彦へのインタビューを引用して、こう書いている。 「〈「近代文学」の耐用年数が過ぎ、先細りしていった三十年だった〉と彼は総括し、文学史的知識や純文学のコードが1990年代に瓦解した後は〈安易な感動や予定調和の波瀾万丈、シンメトリックな起承転結の構造などを伴ったウエルメイドな作品が増え〉たと述べる。だからこそ〈まったく反対の作風の人材も送り出すべきだとは思っていましたね。生物多様性ではないけれども〉。」 さらに「新潮」1月号の中原昌也の「自伝抄」の「わからないものはみんな偉そうで高