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文学に関するnamgenのブックマーク (47)

  • 「わからない」とは何か - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    今朝(12月28日)の朝日新聞に斎藤美奈子が書いている「『わからない』の効用」と題する文芸時評を読んで、前回書いた「『が』という地獄」に通じるところがあったので、急ぎ書いておきたい。そろそろ家の掃除だとか正月を迎える準備だとかしなければいけないのに、こんなことをしていていいのだろうか。 斎藤美奈子は「文学界」の島田雅彦へのインタビューを引用して、こう書いている。 「〈「近代文学」の耐用年数が過ぎ、先細りしていった三十年だった〉と彼は総括し、文学史的知識や純文学のコードが1990年代に瓦解した後は〈安易な感動や予定調和の波瀾万丈、シンメトリックな起承転結の構造などを伴ったウエルメイドな作品が増え〉たと述べる。だからこそ〈まったく反対の作風の人材も送り出すべきだとは思っていましたね。生物多様性ではないけれども〉。」 さらに「新潮」1月号の中原昌也の「自伝抄」の「わからないものはみんな偉そうで高

    「わからない」とは何か - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • 坂のある非風景 夏なればこそ、かすんだ視界でよしとできるか

    もう内臓がボロボロなんだと語る中上健次に、年に千人程度無頭児というのが生まれる、それに中上の脳を移植して再生すればいい、といった会話がなされ、発禁処分になった対談集があったらしいが、現在、誰かは、たえず中上の脳を受け継いだ無脳児ではないかと思っている。でも彼は小説を書いていない。なぜか。 望んだわけでもない生を生きることの意味が、ひとにとってどれほど苦痛に満ちた核となりうるのか。といった真面目そうな問いも問うてみたい。耐えるという抵抗しかなかった場所で、それ以上の抵抗があることを中上健次はみせたし、その「それ以上の抵抗」だけが抵抗の終焉を含んでいた。 どれほど死んでも殺され続ける世界だけが私たちを生かす。それが時には書く理由であり書かない理由だったが、もっとも評価されていない彼の発言「吉隆明全著作集15巻を全部読んだ」はふかく評価されるべきだろう。場所の持つ宿命的な杭に打ち抜かれた精神を

  • 海の記憶 - 記憶の彼方へ

    水上勉(1919–2004) 私は母の胎内でどんな時間を過ごしていたか知らない。私は自分が母からどうやって生まれて来たかも知らない。もし母が生きていれば、私を孕み生んだことを、妊婦としての体験、産婦としての出産あるいは分娩の体験を聞くことができたかもしれない。そんなことは敢えて知る必要はないのかもしれない。だが、無性に知りたくなることがある。せめてその時に母が見ていたこと、感じていたことに近づけないものかと思うことがある。特に私を産む瞬間に母は何を見、何を感じ、何を思ったか。そのとき世界はどう変ったのか。いや、そのとき世界はどう始まったのか。 記憶の彼方にありながらも、人生を根源的に方向づけるようなこの世の原光景、原記憶あるいは記憶の器のようなものがあるような気がしてならない。水上勉の「日海の人と自然」を読みながら、ああ、やっぱりそれは「海」だったか、と腑に落ちるところがあった。海の記憶

    海の記憶 - 記憶の彼方へ
  • 文学の彼方へ・書評

  • ヘンリー・ミラー『クリシーの静かな日々』 - 憂愁書架

    ヘンリー・ミラーの全作品は、暖かな家庭、信頼感のある職場、秩序だった社会、というものへの否定に裏打ちされています。呪詛ではありません。憎しみでもない。慇懃無礼な無関心、冷たい侮蔑と言ったらよいでしょうか。 『北回帰線』の中に、ミラーが仏米親善協定の一環としてディジョンの高校の英語教師に赴任する時のことが書かれていますが、彼はそこで働く「胸くそ悪くなる」フランス人教師たちに遠慮のない嘲笑を浴びせています。「彼らは、この世の中を機械技師、建築家、歯医者、薬剤師、教師等々でもってつくりあげているといったふうな味気ない人間の範疇に属していた。ことばのあらゆる意味で零(ゼロ)であり、立派な、あるいは哀れむべき市民の中核をなす無に等しい連中だった。ダンテが地獄の門に引き渡した無関心な人間の仲間なのだ。まるでかさぶたの皮である」(大久保康雄訳)そして彼は任が解かれるや否や校長にも誰一人にもあいさつせず駅

    ヘンリー・ミラー『クリシーの静かな日々』 - 憂愁書架
  • 水 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    先頃入手した一冊の文庫について書いてみたい。 佐多稲子著『女の宿・水・人形と笛 他七編』。カバーの表には、大柄の葉をもつ草花と「女の宿」の文字が彫られた版画(芦川保)に、明朝体で佐多稲子短篇集という墨文字が乗っている。素朴な味わいのある好い装訂だ。三十年あまり前に刊行された旺文社文庫の一冊で、収録された小説十篇には未読のものも少なくないが、これを購入したのは表題にもなった「水」を再読したいと思ったからである。 「水」は文庫にして九頁たらずだが、巻末の解説で坂上弘が「処女作の『キャラメル工場から』をほうふつさせるような素材の「水」は、佐多さんの領であり、一つの頂点でもあるだろう」と書くように、短篇の代表作の一つといっていいだろう。以前この小説を読んだのは、大江健三郎の『小説の経験』(朝日新聞社)に収められた「中野重治、佐多稲子の水」がきっかけである。大江はTVでの連続講演をもとにしたこ

  • ル・クレジオ・アンソロジー - 記憶の彼方へ

    KOSACこと奄美在住の写真家・濱田康作さんによる、白波たつ冬の奄美の海を眺めるル・クレジオ(Jean-Marie Gustave Le Clézio, 1940–)の後ろ姿(「すばる」2006年5月号の特集扉) ふと思い立って、ル・クレジオについて書いたエントリーを緩く束ねておくことにした。主題的に書いたもののほかに、折にふれて言及しているものが予想以上に多いことに我ながら驚いた。父の死後の私の人生の核心部にすーっと入ってきたのが、「白い皮膚をしたインディオ」としてのル・クレジオだったと言えるかもしれない。それにしても忘れている。自分が書いたとは思えないものもある。穴があったら入りたいくらい恥ずかしいものもある。でも、人生って、そんなもんだろう。というわけで、ル・クレジオ・アンソロジーです。 萱野茂(2006年07月23日) ブログという旅の行方(2006年09月20日) Let's m

    ル・クレジオ・アンソロジー - 記憶の彼方へ
  • 今月の文芸誌(2007年7月号) - 南方郵便機

    1000の小説とバックベアード 佐藤 友哉 Amazonで詳しく見る by G-Tools 今年も早いもので、号の上ではもう下半期に突入。 しかし考えると、文芸誌って、全く季節感無いですね。 「夏到来!ハワイ文学!」とか「避暑地で読むおすすめ純文学」とか たまには季節感あってもいいと思うのですが(笑)。 さて、今月の目玉は、何と言っても、ユヤタンこと佐藤友哉の三島賞受賞あれこれ、 そして、ゲーム的リアリズムをめぐる筒井康隆先生と東浩紀の対談でしょう。 三島賞の選評を読むと、予想通り、受賞作『1000の小説とバックベアード』に対する微妙なコトバが並んでいます。 中でも宮輝の評「私には文字だけで書かれたドタバタコミックとしか思えなかった」は辛辣です。 他にも、「佐藤氏は貧しい」(福田和也)、「佐藤の文学あるいは文学史への向かい合い方は確かに稚拙である」(島田雅彦) といった手厳しい言葉が並び

  • 群像と文學界の新人賞発表。 - 南方郵便機

    群像 2007年 06月号 [雑誌] by G-Tools 今月の文芸誌は、なんといっても新人賞受賞作に注目です。 いやーしかし今回の新人賞は文學界、群像ともに、ぶっとんでますよ。 まずは文學界新人賞の円城塔「オブ・ザ・ベースボール」。 これはもうSFそのものというか、ちょっと安部公房みたいな雰囲気もあるようなないような・・・。 一年に一度、空から人が降ってくる町の話です。 町にはそれに対するレスキュー部隊も組織されていますが、レスキューとは名ばかりで、 人が降ってきたらバットで打ち返すという乱暴さです。絶対、死ぬって。 作者は、前回の小松左京賞の最終選考候補になっていた人だそうです。 そっちのほうではもう単行「Self-Reference ENGINE」が出ていて、一部では評判になっています。これからが楽しみな人ですな。 群像新人賞のほうは、SFどころか、もう訳が分からないトンデモ領域

  • Amazon.co.jp: 埴谷雄高文学論集 埴谷雄高評論選書3 (講談社文芸文庫): 埴谷雄高: 本

  • 『文学全集を立ちあげる』 丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士 (文藝春秋) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 文学全集は長らく出版社のドル箱だった。最初の文学全集は大正15年(昭和元年)に改造社が出した『現代日文学全集』だったが、36万部という大成功をおさめた。以後、文学全集は出版社を潤しつづけたが、高度経済成長時代が終わると急に売れなくなり、昭和天皇の崩御した年に刊行のはじまった『集英社ギャラリー・世界の文学』が最後の文学全集となった。どうも文学全集は昭和という時代の産物だったらしい。 書は過去の遺物となった文学全集をヴァーチャルに作ってみようという鼎談である。半分は遊びだが、半分は大真面目のようだ。というのも、文学全集に収録する作品を選ぶことは、文学のカノン(正典)を定めることだからだ。文学全集の編集はすぐれて批評的な行為なのである。 ヴァーチャル編集委員会の委員は丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士の三氏で、顔ぶれから予想されるように、従来の文学全集を支配していた19世紀文学

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  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…

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  • 飯田龍太死去 - jun-jun1965の日記

    飯田龍太は蛇笏の息子。俳誌「雲母」を受け継いだが1992年廃刊。 俳句の世界は、現代の文学ジャンルの中でも「世襲」制が生きている。近代俳句の創始者正岡子規は子孫を残さなかったが、跡を継いだ高浜虚子は、「ホトトギス」誌上に、娘・星野立子に宛てた「立子へ」を延々と連載した。「ホトトギス」は息子の高浜年尾に受け継がれ、さらにその娘・稲畑汀子が継いでいる。渡辺水巴の俳誌「曲水」は、・桂子から、娘・恭子へと受け継がれ、水原秋桜子の「馬酔木」は、息子の水原春郎が引き継いでいる。原石鼎の「鹿火屋」は原和郎に、中村汀女の「風花」は、娘の小川濤美子が継いでいる。これでは「第二藝術」と言われても仕方あるまい。むろん、俳句のそういう性格と戦っている俳人もいるわけだが。 - 船曳建夫先生の新刊新書「右であれ左であれわが祖国」・・・違うかな? まあそういう感じので、日は「中庸国家」をめざせと書いてあったが、船

    飯田龍太死去 - jun-jun1965の日記
  • 关于一个萝莉塔,和她不被嫌弃的一生 - 彼间业火 - 博客大巴

    namgen
    namgen 2007/02/14
    「恋人たちの森」。森茉莉、父と娘。耽美小说
  • 男と男のいる文学 - 作品メモランダム

    ベンチに腰掛けて読書をしていたら、だれかが私の肩をたたく。なんだろうと思って見ると、先ほどから隣に座っていた見知らぬ男性。「ちょっといいですか?」 それは、くっきりとした目鼻立ちをした青年で、灰色と碧色がまざりあったようなちょっと印象的な眼をしていた。「こんにちは」 いま起きようとしている事態に少し戸惑いながら挨拶をした。 「あの、それはギリシア語ではありませんか?」と青年が尋ねる。私はちょうど、ひざの上にのせたトランクを机がわりに、書物と辞書とノートを広げていた。書物は、青年が言うように(古典)ギリシア語で書かれたものだった。「そうです」と言って、を青年のほうへ差し出す。 「やっぱり!」 その顔がぱっと明るくなって、青年は身を乗り出してくる。彼とともに空気が動いて、やわらかな、香をたきしめたようなほのかな香りがする。「ぼくはギリシア人なんですよ」と言いながら、よく動く大きな眼で書物のペ

    男と男のいる文学 - 作品メモランダム
  • 坂のある非風景 書物と呼ばれる制度

    ■統一された全体性(=同人誌)から、あきらかな不統一、けっして統一されない全体性への脱構築について、再び考えるきっかけをくれたのが、正月早々届けられた『something4』という詩誌だった。 ◇詩誌『something4』 書肆侃侃房 執筆者:白石かずこ+石川逸子+エレン・フライス+文貞姫+工藤恵美子+三井葉子+渡辺めぐみ+川口晴美+山田英子+中神英子+若狭麻都佳+月村香+池谷敦子+槇さわ子+渡邊十絲子+房内はるみ+大石ともみ+池田瑛子+原利代子+佐藤真里子+遠藤めぐみ+柳沢永子+田島安江+鈴木ユリイカ 別刷付録「something blue」:新川和江、三角みづ紀、三浦優子、岡島弘子、作田教子 ■知っている詩人もいれば、知らない人もいた。とても美しい詩誌で、それぞれの詩人は4ページを受け持ち、詩を3ページとエッセイを1ページというルールだけが謳われていた。 『something』は同人

  • 岩本素白と結城信一 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    以前書いた「「槻の木」の人々――岩素白素描」(2006-03-12)が偶々来嶋靖生さんの目にとまり、「槻の木」11月号の「その後の「素白先生」」という文章で来嶋さんが引用してくださった。素白が随筆の発表の舞台とした「槻の木」に拙文が掲載されるとは畏れ多いことである。 来嶋さんは、「岩素白は原則として「槻の木」以外には文章を書かなかった。板橋のお宅まで私たちは何度か原稿を頂戴に伺った。電車もバスもないところで、帰りに道に迷って困ったこともある」と書いていられる。 素白の板橋の家は、彫刻家で画家の石井鶴三の旧宅。「「槻の木」の人々」で、素白の早稲田高等学院時代の教え子に小説家の結城信一がいると書いたが、結城信一のエッセイ集『作家のいろいろ』*1に「岩素白」の文章がある。 「素白・岩堅一先生は戦災に遭ひ、万巻の書とともにその家を焼失された。 「老生昨年の五月廿七日麻布の書屋を喪ひいささか

    岩本素白と結城信一 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
    namgen
    namgen 2006/12/11
    岩本素白
  • 現代における私の文章の有り様と恋愛の在り方についての関連性

  • livedoor ニュース - 作家・伊藤桂一『同人誌の精神』を語る

    作家・伊藤桂一『同人誌の精神』を語る 2006年10月14日08時15分 / 提供:PJ 写真拡大 伊藤桂一さんは89歳の高齢とは思えない、溌剌とした声で、同人誌作家にエネルギーを与えてくれた。10日、神奈川県近代文学館(横浜市)で。(撮影:穂高健一) 【PJ 2006年10月14日】− 作家・伊藤桂一さん(89)は10日、神奈川県近代文学館(横浜市)で開催された全作家協会(豊田一郎会長)主催・第2回文芸講演会で、『同人誌と私』について語った。伊藤桂一さん(直木賞・芸術院賞受賞)は純文学、戦記物、時代物、現代小説などと執筆の幅が広い。他方で、吉川英治文学賞など有名な文学賞の選考委員をも数多く引き受けている。  「わたしは同人誌育ちの作家です」と伊藤桂一さんはみずからを位置づける。直木賞を受賞してプロ作家になるまえの伊藤さんは、長く同人誌活動を行ってきた。この頃には芥川賞候補にもなっている