東浩紀の『動物化するポストモダン』(『動ポモ』と略しています)を読み返すシリーズの続きです。 いままでのまとめと今回の論旨 第一回で私は、コジェーヴの日本的スノビズム論には「特攻も歴史的意味を持たない形式的な自殺の一例である」という主張があり、日本的スノビズムの頂点を武家的な教養である能や茶道のうちに見ているのに対し、東浩紀は特攻への言及を無視した上でその議論を「切腹」と「江戸の町民文化」に「代表」させることで、スノビズム論を日本社会の歴史の一部にしかあてはまらないよう「局所化」し「無害化」し、オタク系文化論に短絡させている、と論じておいた。 東浩紀は、コジェーヴの議論の都合の良いところだけを摘み取って、ad hocな議論をしている。コジェーヴには一貫した歴史哲学があるが、東浩紀には場当たり的な歴史判断しかない。 『動物ポモ』再読(1)―Kojeve/Yiyeasu/Snobisme -