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ブックマーク / tadkawakita.sakura.ne.jp (31)

  • 京浜急行白金町駅 – YOKOHAMA xy通信

    1930年(昭和5年)4月1日に開通した湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀駅から桜木町駅を目指すために初期ターミナル駅を所在地の町名を採って「黄金町駅」とした。一時期社機能が置かれたこともある。 開業の翌年、湘南電気鉄道は日ノ出町まで延伸し当初の計画を変更し、京浜電気鉄道と結合した。そして1941年(昭和16年)に合併し現在の京浜急行が成立した。 戦中の1944年(昭和19年)に駅の所在地は新設された「白金町」となったが、もう少し前倒しで町名変更がされたなら、「白金町駅」に変更されたかもしれない。 横須賀に海軍の施設があったことから、戦時体制となった昭和10年代以降、三浦半島は規制の多いエリアとなったが、終戦とともに新しい局面を迎えた。大東急時代から独立元に持っどった新生「京浜急行電鉄」は都心部から三浦、その先の房総エリアへの送客計画を次々と進めていった。 ハイキング特急 京急は戦後早々に不定

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    nekotuna 2023/02/08
    航空写真と見比べてみたいが、文中最後の地図のような配線にはなってないのではないか。効果の幅的に無理な気がするのだが。
  • 【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1 – YOKOHAMA xy通信

    運河時代の地図をベースに中村川と日ノ出川、吉田川と派大岡川に囲まれた一帯を最も占める町内をまとめて「埋地七ケ町」と呼んでいます。 字のごとく、埋め立てられ宅地となった当時の松影町、寿町、扇町、翁町、不老町、万代町、蓬來町を指します。 埋地七ケ町付近 現在はさらに広く長者町に沿った山吹町・富士見町・山田町・三吉町・干歳町の各町までを含めたエリアを「埋地地区連合町内会」と呼んでいます。 中でも元々の「埋地七ケ町」一帯は近年<また大きく>変わろうとしています。 <また大きく>と表現したのは この一帯が江戸時代から現在まで関内外の中でも特に激しい変化の歴史を歩んできたからです。 この激変「埋地七ケ町」の歴史を紐解くには まず江戸時代の吉田新田開発時代から始めることにしましょう。 <入海から新田へ> 江戸時代の初め、この地域一帯は釣り鐘型(ワタシ的には烏帽子)をした入り海でした。長い戦国時代が終わり

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    nekotuna 2022/04/16
  • 【大岡川運河物語】日ノ出川運河 – YOKOHAMA xy通信

    かつて大岡川運河群の背骨に当たる「吉田川・新吉田川」現在は大通り公園と呼ばれています。 現在、そのなごりとしてこの通りの関内駅寄りに「日ノ出川公園」があります。 日ノ出運河は全長約600mで、運河時代 吉田川と中村川に繋がっていました。 完成したのは1873年(明治6年)、横浜に鉄道が敷設され急速に開港以来、次の発展が始まった時期にあたります。開港場(関内)の誕生により後背地としての関外(吉田新田域)にまで住宅地・商業地が拡大していく真っ只中に誕生しました。 開港後急速に発展した時期、開港場と周辺の集落を繋ぐのは、 南に「堀川筋」に架かる橋があり、北に「新生横浜駅」と大岡川、西は「吉田橋」を渡り横浜道につながる吉田町・野毛町ルート、そして西へまっすぐ伸びる現在の「伊勢佐木」常清寺ルートでした。 開港場の賑わいを支えるには、一つ大きな障害がありました。「南一つ目沼」の存在です。 元々、ここは

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    nekotuna 2021/12/06
  • 【大岡川運河物語】水運の町、石川町 – YOKOHAMA xy通信

    大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。 だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。 その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。 ■中村川運河 JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日で初めて開催された年だった。戦後日が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。 桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。 60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。 駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石

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    nekotuna 2020/12/20
  • No.133 5月12日 餌の勝ち!(加筆修正) – YOKOHAMA xy通信

    大船駅にほど近い岩瀬にあった「鎌倉養殖場」の話しは、地元と水産関係者の中では有名な話しだそうです。現在は児童公園(「岩瀬下関防災公園」として整備中)になっています。 ※ということで 内容確認のため現地に行ってきました。(雨でした) ※以前は アメリカザリガニに関して記述したパネルがあったそうですが現在は見当たりませんでした。どうもアメリカザリガニが「要注意外来種」ということで、記念碑の扱いには異論もでたようです。 この公園に関しては、いろいろ突っ込んでみたいネタがありますが、“鎌倉市”なので控えておきます。 例えば 「いわせ下関こども広場」? 「いわせ下関青少年広場」? 輸出用に養殖された蛙ビジネスは鎌倉から全国に広がりましたが1970年代までに殆ど閉鎖されてしまいました。 現在では用・実験用として年間数千匹輸入されているとのことです。 逆に、 この養殖場からアメリカザリガニは脱走し、戦

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    nekotuna 2020/12/14
  • 【駅周辺史】京急弘明寺駅 六ツ川温泉郷 – YOKOHAMA xy通信

    以前別のところにアップしたテーマを加筆修正してここにアップします。 現在の横浜市南区六ツ川界隈にかつて<温泉旅館群>が点在していました。 温泉と言っても冷泉(ラジウム泉)を沸かして提供したと思われます。 六ツ川近辺に関する文献の中に<温泉>が散見されました。良く登場するのが「大東温泉」と「中里温泉」です。 その中から今日のメインテーマとなる「横濱温泉」が登場します。 現時点では資料不足全容不明ですがテーマの投げかけとしてわかった範囲で紹介します。 (六ツ川) 横浜市南区六ツ川は元々「武蔵国久良岐郡引越村」の一部で1927年(昭和2年)の第三次市域拡張のときに村内を流れる川の名をもとに「六ツ川町」と改称されました。 冒頭の横浜温泉に関して調べてみると 「南区の歴史」には、京急弘明寺駅から平戸桜木道路に出た付近に宿があったことが記されています。絵図では「大東温泉」となっています。 このあたりの

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    nekotuna 2019/12/15
    中里温泉よりもこちらが主だったのか。そして六ツ川支流のそれが!
  • 第981話 【帷子川】River GeoPark | YOKOHAMA xy通信

    今、 帷子川(かたびらがわ)上流域が面白いので紹介します。(2018年暮時点) 市内のRiver GeoParkとして<地球のことを楽しむ>ことができる場所になっています。 ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味します。 なぜ帷子川なのか? 市内4大水系の中で、帷子川は近年大改修が行われています。 特に上流域は、平成まで多くが未改修(半改修)状態で暴れ川の様子をうかがうことができる場所がたくさんあり“蛇行の歴史”を現在も確認できるからです。改修中を含め今が良いチャンスです。 横浜の水系と明治期村落図 まさに蛇行の教科書になる蛇行図(昭和初期) 鶴ヶ峰付近の蛇行で、鶴ヶ峰地区開発で一部面影を残しています。(昭和初期) (洪水の歴史) 近代以降<洪水>は災害そのものですが、かつて私たちは<洪水>と共に生きてきまし

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    nekotuna 2018/12/04
    ほお!これは面白そう。年末年始はこれかな。
  • 横浜と【路上観察】 | YOKOHAMA xy通信

    路上には街の生き様が凝縮している。 路上に凝縮されている「しるし」は、その街の個性を如実に表している。 つまり 路上観察は、街のリアリティを確認する作業である。 残骸、残滓「何かが取り除かれた後に残っているもの」と表現すればネガティブだが、名残とすれば趣が変わる。 路上の残滓は、街の個性、アートになる。 トマソンはまさに残滓、 マンホールも都市生活から隠した痕跡という位置づけも可能だろう。 モジャ壁、落書きはもちろん、暗渠や商店街に漂う湿度はライブなインスタレーションなのだ。 これは 何?から始まる路上観察 私が横浜の路上観察に関心を持ったのはいつ頃だろうか? 1990年代、横浜都民から横浜市民に意識が変化した時が一つの転機となったことは確かだ。 あることがキッカケで横浜市内をいろいろ歩くことになった。最初は目的地にばかり意識が向いていた。 たまたま瀬谷区役所に行くことになり、地図を開き場

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    nekotuna 2018/11/26
  • 第978話【横浜の分水嶺】 | YOKOHAMA xy通信

    都市部ではあまり<分水嶺>という表現を使いません。都市化された市街地にかつて流れていた(流れている)小河川が埋もれてしまう(暗渠化)ことが多いからです。襞のような丘陵地を多く持つ横浜にはミニ分水嶺が多くあります。 今回は 横浜の分水嶺を紹介しましょう。 横浜市域周辺の水系 ■横浜は大きく4つの水系で構成されています。 一級河川 鶴見川水系 二級河川 帷子川水系 二級河川 大岡川水系 二級河川 境川支流柏尾川水系 そのほか 入江川、滝の川、宮川、侍従川 等 水系に含まれる河川名のある支流も多くあります。 鶴見川の支流では 矢上川、早渕川、恩田川(奈良川)、鴨志田川 等 ■分水嶺とは 隣り合った河川流域の境界線を分水界といいます。この分水界となっている山脈(丘陵)を分水嶺と呼びます。 水系全体を分ける大きな<分水嶺>から支流の小さな<分水嶺>まであります。 この分水嶺、横浜市内ではほとんど宅地

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    nekotuna 2018/11/19
  • 第954話ざくっと、かねさわ史 – YOKOHAMA xy通信

    <プロローグ> 横浜市金沢区は市域の南端、東京湾の一角、太平洋に繋がる三浦半島の付け根に位置します。関東平野の深い入海となっている東京湾は起伏に富んだ多くの入江を擁しています。中でも、金沢の入江は内川入江(泥亀新田)と平潟湾・雀ケ浦が織りなすシダ葉のような海岸線を描いていました。 陸に視点を移すと金沢は丘陵が海岸まで迫り、武蔵国と相模国境となる尾根が多摩丘陵までなだら かに続いています。 金沢の海は古くから埋立の歴史でもありました。江戸時代には少ない耕地を増やすために新田開発が行われ、入海の干拓事業が先達の手によって行われてきました。そして近代以降、海岸線が劇的な変化を遂げます。 横浜の海岸線は埋立によってほとんど失われ唯一残された海岸線が金沢の海岸”野島”に僅かですが残されています。一方で人工海岸ではありますが、横浜に<濱>を復活することができたのもここ金沢の海です。 平地は少ないものの

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    nekotuna 2018/07/01
  • 第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」 – YOKOHAMA xy通信

    横浜絵の誕生 開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」 と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。 横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日人の手によって建てられていきます。 この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。 ・横浜浮世絵 No.401 短くも美しく No.401 短くも美しく 外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出され

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    nekotuna 2018/02/25
  • 第940話【最強の市長】有吉 忠一 – YOKOHAMA xy通信

    現在、横浜市長は 第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜) 戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。 戦後は選挙で選ばれています。 戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。 例外は在任中に亡くなれた市長が2名 16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。 (最強の市長は誰か?) 最強という表現が適切かどうかわかりませんが ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る “最強”の市長といえるでしょう。 歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが 有吉忠一は 「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。 “「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。 横浜市史上最大級

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    nekotuna 2017/12/09
  • 第930話石油を巡る点と線 – YOKOHAMA xy通信

    1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。 帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。 明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。 このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。 この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、 1892年(明治25年) 11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシ

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    nekotuna 2017/11/23
  • 第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅 – YOKOHAMA xy通信

    今日は、程ケ谷駅を巡るエピソードを。 1887年(明治20年)7月11日 この日、東海道線の横浜(初代)〜国府津間が開通しました。 これにより程ヶ谷駅( 1931年(昭和6年)に保土ケ谷の名に変更)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅が開業しました。 ほどがや現在は保土ケ谷と表記します。 少し前は保土ヶ谷でもあまりうるさく言われませんでした。保土ケ谷が正式表記です。 90年代、少なくとも私の記憶では神奈川県、国交省(当時の建設省)などは<保土ヶ谷公園><保土ヶ谷インター>といった表記がなされていることが多く、横浜市の「保土ケ谷」と二種類が併存していました。近年、「保土ケ谷」に“じわじわ”揃いつつあります。 なんたって 保土ケ谷区がこの表記のためにサイト持っています。 「「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!」 http://www.city.yokohama.lg.jp/hodo

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    nekotuna 2017/11/23
  • 第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川) – YOKOHAMA xy通信

    Google Earth 滝ノ川に架かる「大清水橋」 かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。 滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。 横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。 長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、 かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント

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    nekotuna 2017/11/23
  • 第916話【横浜点と線】カーティスという人間 – YOKOHAMA xy通信

    1,000話に向けてエンジン掛けて 新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。 ハムとカーティス 今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、 横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。 ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。 「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。 戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。 前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。 ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを

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    nekotuna 2017/11/23
  • 第914話【横浜路上観察】の手引 – YOKOHAMA xy通信

    私は横浜の路上を意識的に観察し始めて10年、 一昨年からは仲間を集めて横浜路上観察学会なるものも始めました。 このブログでは殆ど紹介していなかったので、これも横浜の一風景ということでこのブログに紹介することにしました。 路上には<意図しない>歴史の痕跡があり、 <意識しない>街の記号が存在します。 <意図しない><意識しない>風景に意識を向けると、新しい街の姿が見えてきます。 私達の視覚は不思議なことに、不用な<記号=風景>は視野から消えます。 視線は向いていても見ない風景があるのです。だから日常生活があるのですが、逆に意識するとこれまで見えてこなかった視野に新しい風景や記号が見えてきます。 簡単な例が<マンホール>です。多数の人が往来する足元に存在する<マンホール>を意識して歩いている方はほんの一握りの方です。大多数の方にとって、<マンホール>は道路の一部であり一々区別し認識する必要があ

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    nekotuna 2017/11/21
  • 第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり – YOKOHAMA xy通信

    横浜側:長尾台、田谷 鎌倉側:玉縄、岡 今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。 (長尾台) 大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。 中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。 この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城

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    nekotuna 2017/10/11
    長尾村の一部、田谷村・金井村・長尾(台)が豊田村との合併を望んだのは川ベースでしょうが、柏尾川治水・耕地整理との関連もあるかも(資料がないので治水の時期がわかりませんが)
  • 第866話 横浜川崎市境合戦 その1 – YOKOHAMA xy通信

    国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。 江戸時代は 国替えもありました。 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され その後 1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。 その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。 明治期に71,314の町村があったそうです。 明治22年 「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。 昭和28年〜昭和36年 「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。 <横浜の市域拡大> 横浜を例に取れば、 現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。 近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。 <隣接市> 横浜市は東が川崎市 

    第866話 横浜川崎市境合戦 その1 – YOKOHAMA xy通信
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    nekotuna 2016/11/28
  • 第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い – YOKOHAMA xy通信

    京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません) 開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。 今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。 神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。 神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。 今日は横浜歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。 時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。 「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。 江戸時代に格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と

    第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い – YOKOHAMA xy通信
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    nekotuna 2016/07/21