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ブックマーク / ggippss.hatenablog.com (6)

  • 選評を読んで - 続思い出地獄

    自分の作品に対する評価を読んで感想なりを書く、というのはどう転んでも見苦しいものになるに決まっている。でも少し書いてみたいと思ったのは、ひとつは二人の選考委員から望外に高く評価してもらえていたことが大きいけれど、のみならず、評価の低かった選考委員の言葉も、作品が「誤解されてる!」という「作者」特有の言い訳がましい気分に私をさせるものではなかった、ということだと思う。また選評で評価が割れていたために、作品を自分から切り離されたものとして客観視できる距離が与えられた、ということもあると思う。で、自分がそんなに見苦しい状態にないと感じたので、書いてみるということです。 欠点の多い小説である、というのはまったくその通りだと自分でも思う。などと書くと「言われなくても分かってますよ」という開き直りにもとれるがそうではなくて、欠点はあるけどこれでいける、小説としてそこは欠けても致命傷ではない、これはこれ

    選評を読んで - 続思い出地獄
    nobody
    nobody 2007/10/09
  • 尻の穴の世界のダーウィン賞 - 続思い出地獄

    小説すばる八月号、平山夢明「ダーウィンとべとなむの西瓜」読む。 主人公の相棒が突然始める「尻の穴の世界のダーウィン賞」の話が超無意味で素晴らしすぎる。 平山さんの超おもしろい即興トークが小説の中で突然始まったみたいでびっくりだ。 (参考・平山さんの超おもしろいトークの実際はここで知りました。感動的な面白さ。 http://blog.livedoor.jp/mi_kashima/archives/50953476.html) 構成のわりとゆるい作品なのが、平山夢明という人物そのものの面白さをナマで伝えるのに功を奏している気がする。 こういう話が延々と死ぬほど続くだけの長編も物凄く読んでみたいと思った。 雑誌巻末の「カーテンコール」(平山氏が書いている)を読むと、今作の仕上がりに作家自身納得してないような感が何となく窺えるけれど。 いつもなら確かにこういう平山式自動書記みたいなナンセンスで混沌

    尻の穴の世界のダーウィン賞 - 続思い出地獄
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    nobody 2007/08/11
  • 叙事性についてのメモ - 続思い出地獄

    人間界のドラマは、真実などどこにもないという態度で事実の羅列として語られる。 そのことを仮りにドラマ的叙事性と呼ぶことにする。 真実は共同体によって保証されるもの(幻想されるもの)だが、現在われわれが接するドラマは特定の共同体の中でのみ流通するものではないので、真実性の保証が受けられない。逆にいえば真実性への奉仕の義務もない。 そこでドラマは叙事の側にぐっと傾くことになる。 だが真実とまったく無関係にもドラマは語ることができない。事実の羅列が、なんらかの真実性への通路となりうることを仄めかさずにドラマは成立しない。 その通路の暗示によって、羅列された事実はバラバラになることを逃れ辛うじて一列に繋ぎとめられるのだ。 「母が死んだ。一月後に父が死んだ。翌年姉が死んだ。」 これは叙事である。 「母が死んだ。後を追うように一月後に父が死んだ。翌年には姉もまた両親の元に旅立った。」 こちらは事実のあ

    叙事性についてのメモ - 続思い出地獄
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    nobody 2007/07/17
  • 低い部屋で読書 - 続思い出地獄

    私は高いところに住んだことがない。 実家は二階建ての一軒家で、生まれてから二十五歳までそこに住んでいた。 次に引っ越したのは十階建てマンションの二階。 そこで二年暮らしたのち、二階建てアパートの一階に移り住んで十数年(現在に至る)。 二階以上の高さで暮らしたことがないわけだが、ではその二階が二階以上の眺めになるような土地、つまり高台の建物に暮らしたことというのがまた、一度もない。 実家は谷あいというか盆地の底のようなところで、どこに行くにも上り坂だった。 独り暮らしを始めたマンションは、海に近い平坦な土地だけど、周囲は高い建物ばかりで見通しが悪い。 今住んでいる場所も盆地。かなりの急坂をこなさないと駅には近づけない。 世界を高みから見おろすような不安とは無縁に、つねに地べたに這いつくばっていることの自覚をうっかり誤る心配のいらない、じつにふさわしい環境にのみ暮らしてきたといえる。 つまり世

    低い部屋で読書 - 続思い出地獄
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    nobody 2007/07/17
  • 寝かせる。 - 続思い出地獄

    貧乏と貧乏性の区別がつかなくなることが貧乏の最大の弊害だ、ということを考えるでもなくただ言葉として頭に思い浮かべつつ、思い浮かべたそばからこうして頭の外に書き写してしまうとします。すると頭の中はその言葉を留めておく責任を逃れたと安心し、すぐに黒板消しで黒板をごしごしやってしまう黒板係が登場するでしょう。その瞬間ここは小学校かと思いますね、実際、黒板係がいるなんて中年男(いっけん若く見えるが、小学生ほどではない)の頭の中とはそれは思えない。 そういう頭の中の私がこっそり応募しようかと思ってた『幽』怪談文学賞(短編部門)でしたが、時間切れアウトとなったためにこうしてまた頭の中の板書から、みなさんに見えるところにノート取って黒板係の登場を待とうとしている。九割がた、規定枚数からみれば書けていたともいえるが、最後の落しどころがぎりぎりまで粘ったものの見つからず、しかも読み返したら推敲の余地ありまく

    寝かせる。 - 続思い出地獄
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    nobody 2006/06/27
  • memo - 続思い出地獄

    たとえば私にとって私とは家のようなものです。 それは「入ることができない家」でもあるし「出ることができない家」でもあります。 私が私の手のひらを眺めているとき、私は眺めている手のひらの皮膚の外側にいます。 私が私の手のひらにペン先を突き立てて痛みを感じたとき、私は痛みを感じた手のひらの皮膚の内側にいます。 私は私という家の外側と内側に同時に存在しているのです。 家から締め出されていることを知りながら家に入る方法を知りません。 家に閉じ込められていることを知りながら家を出る方法を知りません。 この二人は同じ人間でありながらいつも二人であり別々にいるのです。 一軒の家の内壁と外壁をそれぞれ反対側から眺めているのです。

    memo - 続思い出地獄
    nobody
    nobody 2005/09/13
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