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哲学に関するnpideaのブックマーク (17)

  • 読売ADリポート ojo:adv.yomiuri

    昔に比べて忙しくなったよな、と同輩たちの皆が口にする。携帯電話や電子メールにはひっきりなしに用件が飛び込んでくるし、ウェブを見始めるとどこまで行っても全くキリがない。 携帯電話もネットも無かった頃に比べて、私たちがアクセスできる(またはアクセスせねばならない)情報量は爆発的に増えている。押し寄せる情報を捌くのに追われている感じ、つまり日々の体感スピードがアップしているのだ。 こうした事態に、情報処理能力のスピードアップで対処しよう、というのは一見理にかなっているように見える。しかし、これはかなり危険な戦略だ。要約、指針、あるいは結論を手っ取り早く得る……つまり、他人のアタマを拝借して時間を節する、という安易に流れる。 セミナーマニア、ビジネス書中毒、検索一点張り、日がな一日ツイッター……等々。そうして他人の見解ばかり追いかけたり、つぎはぎして吹聴している人で、一流になった(あるいは見込みの

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    npidea 2010/04/13
    平塚元明氏(omiyage)によるマーケティング関連本紹介。「<子ども>の為の哲学」(永井均著/講談社現代新書))
  • 人間はどうして労働するのか - 内田樹の研究室

    『日の論点2010』(文藝春秋)が届いた。 そこに「労働について」一文を寄せている。 こんなことを書いた。 「働くとはどういうことか」 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。 (1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。 (2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。 だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹が

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    npidea 2009/12/17
    "労働の価値は..その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与される / 「ありがとう」..私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替え..それを求めて、私たちは労働している"
  • 我思う我書く、の2 - すべての夢のたび。

    昨日の続き。 デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。なんでそれをぼくが知っているかというと、彼はそのことを『方法序説』というに著して世に問うたからです。彼は自分が考えて考えて辿りついたアイデアを、他人に伝えようとしたのです。それはなぜか? 黙って一人胸の内に秘めておくこともできたのに? ぼくは子供の頃、自分の行動範囲しか世界はないのではないか、というような妄想をしていたことがありました。なにかの理由があってここに連れてこられてきて、ずっと監視されていて、ぼくが行く可能性のあるところはしっかりと作られているけれど、例えば入る用事もないようなビルなんかは外側だけはちゃんと作ってるけど中身は張りぼて、更に、行く必要もないような遠いところなどは実際には存在しないのではないか? そのような妄想を、どういった話の経緯でそこに辿りついたのかは忘れましたが、ある時、知人も同じように昔持っていたこ

    我思う我書く、の2 - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/29
    "もし独我論があり得るのなら、それを"他人"が語っているという時点で既におかしいのです"
  • 我思う我書く - すべての夢のたび。

    「我思うゆえに我あり」とデカルトが言ったことについて、ちょっといろいろ考えていました。 全てを疑うことが可能だとしても、それを疑う"我"が存在することだけは絶対に疑い得ない、とデカルトは言いました(多分)。では"我"の存在が他の全てのものごとの起点になるのだろうか、と考えると、それは違うだろう、と思うのです。 ことばだけを見ると、「我思うゆえに我あり」は正しいことを言っているようにぼくには感じられます。しかし、そもそも"我"とはなんなのでしょうか。"我"という概念がぼくの頭のなかにあらかじめ存在していたからこそ、ぼくはデカルトのことばを理解できたわけです。 「"我"とは○○のことである」といったように、その概念の説明には別の言葉が必要になります。知らない言葉は辞書を引くことにしても、どこかで定義はループになってしまうので、輪の外側に足場がなくてはいけない。結局は、ぼくが"辞書など引かないで

    我思う我書く - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/10/26
    "デカルトのことばは、「世界に先立ちその始まりを告げるもの」ではなく、ただ「世界の中で確実な足場にできそうなもの」を指し示しているに過ぎない"
  • サルトルの「自己欺瞞」論 - Arisanのノート

    『存在と無』(ちくま学芸文庫)のなかの第一部第二章では、「自己欺瞞」という心理現象の分析をとおして、人間の意識のあり方に迫る試みが行われている。 この部分がたいへん面白いと思ったので、ここにメモしておきたい。 まず、これはとても重要なことだが、サルトルはここで、嘘や虚構と、自己欺瞞とを明確に分けている。 嘘をつく人の内心の気持ちは、肯定的である。つまりその気持ちは、肯定的判断の対象ともなりうる。嘘をつく人は、だます意図をもっているのであり、この意図を自分に隠そうとはしないし、意識の半透明性をおおい隠そうともしない。(p173) 虚偽は一つの超越的な行為である(p174) この「意識の半透明性」というのがよく分からないのだが、まあいいだろう(「無」が関係してるのだろう。)。 ともかくサルトルがここで問題にするのは自己欺瞞であって、嘘(虚偽)や虚構ではない。自己欺瞞は、「超越的」ではない。私が

    サルトルの「自己欺瞞」論 - Arisanのノート
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    npidea 2009/10/15
    サルトル『存在と無』(ちくま学芸文庫) "ここで描かれている「自己欺瞞」とは、オーウェルが『一九八四年』で描いた「二重思考」なるものと別のものではないように思う。"
  • また自由意志についての斯く斯く然々 - すべての夢のたび。

    自由意志に関して皆様にお知らせしておきたい事実がひとつございます。というのは、ぼくはここ最近で脳や意識に関するをたぶん20冊くらい読んでいるのですが(まぁ全部一般書ですけどね)、その著者やの中でインタビューされてる科学者などで、自由意志の存在を認めている人は「ほぼいない」ということです。「全くありえない」から「信じ難いがそう考えざるを得ない」まで濃度はさまざまですが、素直に「人間は自分が意志した通りの自由な行動ができる」と考えている人はいなさそうなのです。ない、という合意ができつつある。 これはどういうことかというと、脳や意識の研究に携わる科学者たちは、いままさに"地動説"が正しいと気付いてしまったのだ、ということです。しかしまぁ世間の人は、地球は宇宙の中心だと信じきっており、そんなことはあまりにも当然すぎるのでそもそも話題に上りもしない、と、そんな状況なのではないでしょうか。 「自由

    また自由意志についての斯く斯く然々 - すべての夢のたび。
  • ハード・プロブレムのイージーな片づけかた - すべての夢のたび。

    「ハード・プロブレム」とは、デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「物質としての脳からなぜ、またどのようにして主観的な意識体験が生まれるのか」(ウィキペディアより)という問題です。 人の頭のなかで百億単位のニューロンにより行われている情報のやりとり。これらは完全に物理的なもので、電気的/化学的な記述が可能です。そこからどうやって、明るいだとか、青いだとか、楽しいだとか、あるいは、自分が存在する感じだとか、そういった私たちの「ありありとした感覚」が生み出されてくるのか? 容易には埋められそうにないこのギャップを、チャーマーズはハード・プロブレムと呼んだわけです。 これに絡んで、有名ですが「哲学的ゾンビ」という概念もあります。私たち人間とまったく同じように振る舞うけれど、機械のように内面的な体験(意識)を持っていない存在と定義されます。そういったものが可能か?という話です。ハード・プロブレムの存

    ハード・プロブレムのイージーな片づけかた - すべての夢のたび。
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    npidea 2009/09/16
    宮台氏の言うところのポストモダン、底が抜けた状態と絡めて考えたい。
  • #100 語らない美学は人を損なう - 中島 義道 さん(電気通信大学教授  哲学博士) | mammo.tv

    「戦う大学教授」の異名をとる中島義道さんは、日々戦っている。 例えば、バスや電車のけたたましいアナウンス。それに抗議し、徹底して議論する。 言葉が人を人たらしめる限り、人が形つくる世の中は議論すれば変わる。 と思いきや、それは建前で、日では言葉よりも「慣例」や「その場の空気」が優先される。 以心伝心といった語らないことを特徴とする日文化の問題点をお聞きした。 騒音をはじめ納得できないことについて、徹底的な議論を挑まれますが、それが真・善・美を求める哲学的な態度に由来するものとすると、竿竹屋に殴られそうになったり駅員と喧嘩したりと、心の平穏を求める哲学のイメージとはずいぶん違いますね。 哲学は確かに真・善・美を求めますが、現世の幸福とは必ずしもつながらないものです。「真理を求めることが大切だ」と、きれいごとを言っても、当の意味でそれを求めると社会から外れ、権力には嫌がられ、迫害されます

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    雨季のバンコク2泊4日旅行記 夏は苦手と言いながら、春先の憂を吹き飛ばしたくて、今年も海外旅行の予定をいれてしまった。昨年20年以上ぶりに海外に足を伸ばし、旅をすると人生の栞が増えることを実感してから、だんだん旅が好きになってきたように思う。 今年の行先は雨季まっさかりのタイ・バ…

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    npidea 2009/09/02
    鷲田清一、中島義道。
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    npidea 2009/09/02
    鷲田清一 『てつがくを着て、まちを歩こう ファッション考現学』 (ちくま学芸文庫)
  • 中野裕太君はスゴイ - ONE FINE MESS

    水道橋博士の日記で中野裕太君が天才だとプッシュされているのを読んだ。で、博士の異常な鼎談という番組で宮崎哲弥と話しているのを見て当にこの人は天才だと思った。 平成教育学院では自慢をするくせにクイズの成績が悪いということで、いんちきキャラ、嫌味キャラのように扱われているという。 掲示板を見る限り、ファンよりもアンチも多いようだ。 でも、宇治原のような受験エリートとは違う次元にいると思う。 受験とか学校の勉強とは違う尺度で測ったほうがいいのではないか。 宮崎哲弥と思想について語り、対等に渡り合ったのみならず、思想的に宮崎を勇気付け、鼓舞したというのは素直にすごいだろう。 少なくとも俳優のみならずここまで自分の考え方を壮大にかつアカデミックに語った若い人を私は見たことがない。 能書きはともかくとして、以下はその番組を思想的な側面の発言だけまとめたものだ。 私は番組を見て、とても元気をもらった。

    中野裕太君はスゴイ - ONE FINE MESS
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    npidea 2009/08/02
    共感覚。苫米地以来。宮崎哲弥も感心。
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
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    キーボードを、持ち歩く。 久しぶりに、スマホ用のキーボードを使ってブログを書いている。 いくつかキーが壊れてしまっているので買い替えないといけないのだが、壊れるくらいには使い込んでいたんだなと思った。 当時は、今のようにPCを普段から持ち歩くことが少なかったので、出先でもブログ…

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  • 新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(4/終) - すべての夢のたび。

    過去分はこちら→ (1)・(2)・(3) 南 私は断念することを教えたいんです。教えたいというとおこがましいけど、断念するということを学ぶべきだと思うんです。絶対にわからないことは、わからないってところでとめるべきです。それを言ってしまうと、世界が閉じてしまって、閉じた瞬間にパワーを失っていくに違いない。 でも、霊魂があるかないかの話を、なぜあんなに人は大昔から古今東西、ずっと今までしてきたかというと、人ごとの話じゃないからですよ。根には、自分は一体どこから来てどこへ行くのかがわからないという、実存の根に不安があるんですな。 切ない話ですよ、自分がなぜここにいるのかわからないというのは。そうすると、霊魂とかあの世とか、何か言葉を持ってきてフタをしたくなるわけです。 茂木 どこから来たのか、あるいはどこへ行くのかのどちらかを。 南 あるいは両方を。これは人間の普遍的かつ根底的な欲望なんで

    新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(4/終) - すべての夢のたび。
  • 新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(3) - すべての夢のたび。

    南 例えば、空海上人と道元禅師は、最も言語に対して対照的でなおかつ深い思索をした人間です。空海上人の「真言」というのは、言語の外にあることも言えてしまう、そしてそれがそのまんま一つの実在になる、ということだと私は思っています。「真言」というのは言葉ではなく実在で、言語の向こう側にあるものを掴んで実在させる。これは言語に対する考え方としては、ものすごく極端で、下手すると、初めに言葉ありきの世界の考え方。 対して禅は、そこから先は言わないという断念の力なんです。ギリギリのところまで言えば、反動としての抵抗感を感じる。この抵抗感で断念する。そして押し続ける。言える限り言う。あることを言うと、またそのうち言葉を自分で裏切って次の言葉を使う。「不立文字」と言うのは、文字を立て続ける力のことだと私は思っています。密教はあえてそこを破って、実在としての言語というところに踏み込むわけです。 35-36ペー

    新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(3) - すべての夢のたび。
  • 新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(2) - すべての夢のたび。

    人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書) 作者: 茂木健一郎,南直哉出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2009/04メディア: 新書購入: 20人 クリック: 170回この商品を含むブログ (31件) を見る (1)はこちら。 茂木 先ほど、引きこもりやリストカッターの話が出てきましたけれど、人間の存在とか、認識のあり方の根問題に触れちゃった人がいるっていうのは、確かに大問題ですね。それはある意味で認識論の病気ではないですか。 南 そう思います。すでに世の中で常識とされている価値や存在に、疑問を持っている若い人がかなりいます。私のところにもよく相談に来る。例えば、死にたくてこの世から早く消えてしまいたいと思っている人間がいるとします。彼あるいは彼女に何かを言うとき、普通だったら生きているのは良いことだという前提で話をするでしょう。でも、そうした疑問を抱えている人間はそ

    新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(2) - すべての夢のたび。
  • 新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(1) - すべての夢のたび。

    人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書) 作者: 茂木健一郎,南直哉出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2009/04メディア: 新書購入: 20人 クリック: 170回この商品を含むブログ (31件) を見る このを紹介したいのだけど、まとめるの面倒だなーと思ってました。でもここは書評サイトじゃないんだからべつに適当でいいんじゃん!という気分になったので、一回でまとめなくても、気に入ったところを少しずつ引用したりすればいいか、ということにしました。 で、最初に「おー」と思ったところ。実はこのを紹介してる他のはてダ2つでも同じところを引用してた(笑)。でも、そこからコピらずにちゃんと自分で打ち直しました。茂木さんによる南直哉さん評の一部。 もっとも心に残ったことの一つが、南さんが95歳のおばあさんと交わしたという会話である。「和尚さん、死んだら私は良いところへ行けます

    新潮新書「人は死ぬから生きられる」の紹介(1) - すべての夢のたび。
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