コメントも落ち着いたようなので、第二回を掲載したい。連載のテーマである『日本人は、なぜ議論できないのか』の主眼は、計量的・統計的にその正誤を証明すべき命題であることにあるのではなく、多くの日本人が認識し、外国人が指摘し、問題視されている現象であることに置いている。 また、このテーマが、解決可能であるかどうかは、連載終了後の各読者の判断に委ねたいと思う。少なくとも、こうすれが解決するというHow To的な論考を展開する心づもりはない。誰にでもできるHow to的解があるのであれば、そもそも、この問題は存在していなかろう。 すでにコメントでも論が展開されているが、なぜ、頭の良い"であろう"学者先生と優秀"な"文部官僚が、そもそも自発的・自律的を前提とする「考える」を「主体的に考える」などという、「馬から落馬」のような重複表現を使ったのであろうか。これを言葉≒概念の定義に対しての感度が低いからで