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2013年3月18日のブックマーク (5件)

  • 割合のはなし――陽性とか陰性とか - Interdisciplinary

    こんがらがる 診断の話をする時、陽性とか陰性とか、偽陽性とか陰性的中度とか、そういう馴染みの無い言葉が出てくる上に、特異度=d/(b+d) みたいな式がいきなり沢山あって、訳が解らなくなります。どの言葉が何を指しているのか掴み取れない。頭の中でグルグル回って、把握が困難です。 概念から 私が思うに、こういうものを考える時は、専門用語を憶える事は後回しにして、まずどのような概念があるかを押さえておくのが重要であります。用語を憶えて、その言葉が指す概念を当てはめていく、とやっていると、頭がパンクしてしまうので。 図示 こういうのは、図を手がかりにして憶えるのが良いですね。具体的なイメージを操作しつつ概念を把握していって、それを抽象化していくプロセスをとると。 件数と割合 この種の問題では、「件数」と「割合」が一緒に出てきます。ですから、今着目しているのが単なる件数なのか割合なのかをきちんと押さ

    割合のはなし――陽性とか陰性とか - Interdisciplinary
  • 1200人が一斉に動く、深夜の代官山地下化切替工事を完全取材

    工事は東急電鉄と東急建設が独自に開発した「STRUM(ストラム)工法」を採用。同工法は「用地確保が困難である」「短時間で鉄道の地下化を行う」「在来線の運行を妨げない」などの利点を持ち、今までに東急目黒線不動前駅付近立体交差事業や、みなとみらい線東白楽駅から横浜駅間の地下化工事などで成功した実績を持っているという。 今回の現場となる代官山駅付近は沿線に建物が密集し、仮線を設ける用地確保が困難であることから、地上営業線(東横線)の直下に東京メトロ副都心線につながる地下線を準備し、短時間(終電から始発まで)で地上線を地下線へ切り替えが可能な同工法が用いられた。 工事内容は、代官山駅ホームなどのレール高さを下げる「降下区間」、今まで使っていたレールの切断や仮設ホームを撤去する「撤去区間」、クレーン作業が困難な場所ではジャッキを用いて既存の地上線を持ち上げる「扛上区間」など計6ブロックに分業化され効

    1200人が一斉に動く、深夜の代官山地下化切替工事を完全取材
  • 専門家の話が分からない、一般人の気持ちが分からない - 雪見、月見、花見。

    何でもいいのですけれど、あなたがすっごく詳しいこと、専門にしていること、特に仕事にできるぐらいのこと、何か専門的な話を誰かそれを全く知らない人に教えなきゃいけない時。 そんな経験、きっと誰しもあると思うんです。 そんな時、どうです? うまく説明できました? ・・・恥ずかしながら、私はいつもうまくできないんです。 なぜって、そもそも普通の人がどれぐらいそのことについて知っているかさっぱり分からないからです。 一度専門家になってしまうと、専門知識が無い状況というのがもはや想像できないんです。 そうですね、例えば、野球を全く知らない人に野球のルールを説明する状況を考えてみて下さい。 あなたがとりあえずまずこう説明したとします。 「野球っていうスポーツのルールはね、大まかな流れとしては、ボールをピッチャーが投げて、それをバッターが打って、そのボールが取られない内にバッターがベースを回って一周できた

    専門家の話が分からない、一般人の気持ちが分からない - 雪見、月見、花見。
  • 困った自転車放置!ある看板をつけたら放置がなくなる、そのコトバとは?

    新入社員時代、もともと伝えることが得意でなかったにもかかわらず、コピーライターとして配属され苦しむ。連日、書いても書いてもすべてボツ。紙のムダということで当時つけられたあだ名は「もっともエコでないコピーライター」。ストレスにより1日3個プリンをべ続ける日々を過ごし、激太りする。それでもプリンをやめられなかったのは、世の中で唯一、自分に甘かったのはプリンだったから。あるとき、伝え方には技術があることを発見。そこから伝え方だけでなく、人生ががらりと変わる。書はその体験と、発見した技術を赤裸々に綴ったもの。 業の広告制作では、カンヌ国際広告祭でゴールド賞を含む3年連続受賞、など国内外55のアワードに入選入賞。企業講演、学校のボランティア講演、あわせて年間70回以上。郷ひろみ、Chemistryなど作詞家として、アルバム・オリコン1位を2度獲得。『世界一受けたい授業』等テレビ出演多数。株式会

    困った自転車放置!ある看板をつけたら放置がなくなる、そのコトバとは?
  • 震災から2年。エステーの、ちょっといいお話 ちょっとじゃありません、ものすごくいいお話|新聞・週刊誌「三面記事」を読み解く|ダイヤモンド・オンライン

    奥尻島を震源地に、北海道南西沖地震が発生したのは一九九三年のことだった。 阪神淡路大震災が起きる二年前だが、津波を伴い、死者二〇二人、行方不明者二八人を出したこの地震は、三宅島や雲仙普賢岳の噴火と並び、当時としては近代における大惨事のひとつとして報じられた。 その奥尻島の現地取材に、残念ながら私ではなく先輩のライターが赴いた。 月刊誌に長いルポを書く予定で、先輩は、十日ほど現地に滞在し、帰京して急ぎ原稿をまとめる計画を練っていたが、先輩は帰って来ない。入稿日という名の〆切が近づき、そろそろ戻らないとまずいという時期になっても、先輩からは電話一かかってこなかった。 至極当然の流れで、担当編集者は焦り、やがて苛立ち始める。どうなっているんだあいつは、もう〆切じゃねえか、と別の取材をしていた私までがどういうわけか叱られる始末だ。 結局、先輩は印刷所を待たせ……、印刷所の輪転機を止めたり待たせた