“私は、偶然にも、偉大なるSF作家のアイザック・アシモフの後継者として、全く役立たずの立場ながら、アメリカ人道協会名誉会長になってしまったわけです。何年か前にアイザックの追悼行事で、私が喋ることになって、こんなことを言ったんです:「今、アイザックは天に召されています。」人道主義の方々の前で言うには最高に愉快な言葉でしたな。皆さん大爆笑だ。元に戻るまで数分かかりました。あって欲しくないと思いますが、万一私が死ぬことになったら、こう言っていただきたい。「カートは今、天に召されています。」これが私のお気に入りのジョークなんですよ。” -from 『祖国なき男(A Man Without a Country)』 (カート・ヴォネガット氏公式サイト) 以下、ワシントンポスト紙2007年4月12日付報道から抜粋: 戦争の不条理と科学の進歩に疑問を唱える風刺小説家として『スローターハウス5』や『猫のゆり
http://www.vonnegut.com/ 追悼ビデオ わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。たとえばトラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめるのと同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめることができる。彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った瞬間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。 トラルファマドール
八〇年代に、ちょっとしたヴォネガット・ブームがあった。若き橋本治が『スラップスティック』を絶賛し、ゼルダのサヨコは「スローターハウス」を歌い踊った。だから僕も学生時代に、ヴォネガットの作品はほとんど読んでいた。彼の代表作を、あの素晴らしい日本語で読ませてくれた浅倉久志、伊藤典夫の両氏にあらためて感謝したい。 「愛は負けても親切は勝つ」。これがヴォネガット最大のテーマである。彼のエッセイでそれを知って以来、僕はこの言葉を至るところで引用してきた。とりわけ治療場面で。治療が不可能な患者であっても看護は可能であるように、かけらも愛がなくても「親切」にすることはできる。ニヒリズムの極北から生まれたこの思想が、このうえない寛容さにつながることは、アイロニーなのかユーモアなのか。もちろん後者だ。 ヴォネガットのユーモアは、廃墟の中で、どうしようもなく孤独な人間によって発揮されるそれだ。それは無残なトー
カート・ヴォネガット(1922-2007) ▼小説家のカート・ヴォネガット氏が死去 米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、米作家で1960―70年代の若者をとらえた対抗文化(カウンターカルチャー)の旗手、カート・ヴォネガット氏が11日、ニューヨーク市内で死去した。84歳。関係者によると数週間前に転倒した際、脳を損傷し治療を続けていた。1922年、ドイツ系移民の子としてインディアナポリスで生まれた。第2次世界大戦で従軍中にドイツ軍の捕虜となり、連合国側によるドレスデン爆撃を体験。これが後に作家としての原体験となった。ユーモアとペシミズムが織りなす独特の語り口で、米文化の衰退や人間の存在の意味を問う作品を著した。その作品群により、ベトナム戦争に悩む若者たちにとって文学的な偶像となった。52年の「プレイヤー・ピアノ」で登場、ドレスデン体験に基づいた69年の「スローターハウス5」は代表作の
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