私たちは勉強がキライです - Togetter 「勉強」という語をどういう意味で取るか、という話もありますが、この文脈だと、学校で学ぶような内容で、その中でも自然科学分野を習得しようとする事を指している、と考えて良いと思いますので、ここでは基本的にその意味で用います。 まず、本質的に、勉強するってキツイ事だと思う訳です。様々な用語や規則を憶えて、それぞれの関係や全体的な構造を把握するのですから、一筋縄ではいかない。WEBの発展等で、一昔前よりも効率的に出来るようになったとはいえ、時間も金も要ります。報酬が貰えでもしない限り、積極的に勉強するのを志向する事は、なかなか無いでしょう。 で、私自身は、勉強が好きです。どうしてかと言うと、キツさを補ってあまりある面白さに気付いたから。 科学というのは、世界を知るための方法の群と、それによって知る事が出来た知識の集まり、というようなものですから、それ
http://i.hatena.ne.jp/idea/2361 http://list.g.hatena.ne.jp/Hebi/20050604/p1 を読んで、思うこと。 自分のメモ書きはここ。 http://fragments.g.hatena.ne.jp/mutronix/20050519#p1 自分が、何かを見て「あっ」と、思うとき、これは何かに使えるかも知れない、と思う瞬間というのがあって、これはカテゴリでは捕捉不可能だと思います。 カテゴリというフィルタを通すことで、その網の目に通るように脳内で整形してしまうというか。 カテゴリの数を増やしても、「先にカテゴリを決めている」ということには変わりないわけで、それって結局「自分が今もってる枠組みで情報を処理してる」だけなんですね。 だから「反応」になる。しかし、反応…とは、すでに自分がなんであるか知ってる人の言葉じゃないんですかね。
「自分と世界を直結して『社会』が無い」ような世界観を持つ作品や、世界観そのものを「セカイ系」と呼びますが、「はてな村民」ならよく知っていること。 しかし僕にはよくわからなかった。 「自分と世界を直結して『社会』が無い」 というのはどういうことか? それは、こういうことだ。 社会とはつまり他人のこと。 つまり、「セカイ系」とは「社会がない」世界のことで、親しいお友達しかおらず情報もその輪の外には出ないソーシャル・ネットワークは「社会」の無い「セカイ系」そのものですよ。 社会とは面倒な「他人」 他人とは、面倒を起こす人間のこと。理解不能な人間のこと。 具体的には、全体最適を貪り食って台無しにするタイプの人。 「カイジ」で例を挙げるとわかりやすいのだけれど、「利根川」「兵藤」「船井」ではなく、「安藤守」が一番近い。 ちなみに「安藤守」は、公式ガイドでも「人間として救いようのないクズ」「クズの中の
■ Winny事件を振り返る Winny作者事件の控訴審判決公判が明日となった。一審判決から3年弱が経過したが、私のWinnyに対する考え方は変わっていない。当時の考えは以下の通りである。明日の判決を受けて、今度はどんな世論が展開されるだろうか。*1 Winnyの問題で作者を罪に問おうとしたことが社会に残した禍根, 2006年12月12日の日記 Winny作者が著作権法違反幇助の罪に問われている裁判の地裁判決がいよいよ明日出るわけだが、有罪になるにせよ無罪になるにせよ、そのこととは別に、独立事象として、Winnyネットワーク(および同様のもの)がこのまま社会に存在し続けることの有害性についての理解、今後のあり方の議論を進めるべきである。(略) これまでに書いてきた通り、Winnyは、従来のファイル交換ソフトと異なり、利用者達が意図しなくても、多くの人が流通し続ける事態は非倫理的だと思うよう
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