上海博物館蔵戦国楚竹簡 竹簡(ちくかん)は、おもに東洋において紙の発明、普及以前に書写の材料として使われたもので、竹で出来た札(簡)を竹簡(ちくかん)と呼び、木で作られたものは木簡(もっかん)といい。両者を合わせて簡牘 (かんどく)とした。[1]ただし、中国で用いられたのは竹簡が多いので、竹簡を竹簡と木簡の総称の簡牘の意味で用いる場合も多い。 木簡は中国以外でも多く使われたが、竹簡の中国以外出土はごく少ないか、皆無である。ごく特殊な例として、封禅のために玉で作成した「玉簡」も用いられた。公式文書では通常長さは一尺。紙普及後も、紙の代用として、あるいは荷札などの標識として長く用いられた。 簡をバラバラにならないよう紐でまとめ、編むことを「書を編む、編集」といい、編まれた簡を「一編の書」といい、編まれた書を巻いたものを「一巻の書」という。また簡を紐で束ねたものを「一冊」とする。冊は板(簡)を紐
義和(ぎわ)は、以下の元号。 義和 (北涼)(431年 - 433年) - 五胡十六国時代の北涼 義和 (高昌)(614年 - 619年) 中国神話の羲和 羲和(ぎわ)は、平安時代に日本にも伝わっていた中国古代の地理書『山海経』に記載のある太陽の母神であり、炎帝に属し東夷人の先祖にあたる帝夋の妻。羲和が天照大御神を指しているとする声もある。東海の海の外、甘水のほとりに羲和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑(扶桑はかつて日本にあったとされる巨木)の下に住む女神である羲和は、神車を引きながら、子である「十の太陽たち=三足烏」を世話している。天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。 子孫には、中国五帝の一人とされる東夷人の領主・少昊がある。また、羲和から生まれた十日の子孫に「日氏」や「湯氏」があり、羲和の和に因む「羲氏」と「和氏」は天地四時の官に
木簡(もっかん)とは、主に古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、完全に存在を消したわけではなく、荷札などには長く用いられた。竹片に書かれた竹簡と木簡を合わせて、簡牘と呼ぶ。 荷札木簡(複製)。飛鳥、奈良時代、7-8世紀。飛鳥京、藤原宮、平城宮跡出土品。 木の板に文字を書くことは、文字の存在する文化圏では古くからごく一般に行われていた。後代にも文字を書いた木というだけなら、落書きした木片や呪いの札など多種多様なものがみられる。歴史学・考古学の見地からは、それらすべてが過去の生活の様子を伝える貴重な資料であり、広い意味での木簡として研究対象になる[1][2]。この意味での木簡は、研究上の概念であり、その時代の人々が字が書かれた様々な木を木簡として一まとめに考えていたわけではない。 その中で、中国、朝鮮、日本では一行または数行の文を書い
形声。「一 (始点)」+音符「止 /*TƏ/」。「ゆく」を意味する漢語{之 /*tə/}を表す字。のち仮借して助詞の{之 /*tə/}に用いる。[字源 1]
中国古代神話の中の太陽神。《山海経(せんがいきよう)》大荒南経によれば,東南海のかなたに羲和の国があって,そこでは羲和という女性が生まれたばかりの太陽に産湯(うぶゆ)を使わせている。羲和は帝俊の妻で,10個の太陽を産んだのだという。すなわち中国古代人の観念では,天には10個の太陽があって,甲乙丙丁の十干の日付けに従い毎日1個ずつ太陽が昇り,10日で一巡する。その太陽を産んだのが羲和である。《山海経》に付けた郭璞(かくはく)の注によれば,羲和は天地創造のはじめから存在し,日月をつかさどってきたという。宇宙全体を統べる絶対神のおもかげを見ることができよう。太陽の馬車の御者を羲和と呼んだりするのは,のちの職能神化によるものである。《尚書(書経)》尭典篇ではさらに歴史人物化され,尭帝の下に暦をつかさどる家として羲氏と和氏とがあり,両家の羲仲と羲叔,和仲と和叔の4人が,それぞれ東南西北の大地の果てに
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