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ブックマーク / kananaka.hateblo.jp (12)

  • ダイジョウブ、ダイジョウブ。 - kananaka's blog

    pita-gora
    pita-gora 2011/12/01
    岩石たまご
  • 世界で一番小さな海。 - kananaka's blog

    物語はいつも、呆気ないほど微小なかすり傷から始まるものだ。けれど、それが当にただの<擦り傷>か、あるいは癒えかけた<古傷>の疼きか、それとも真皮に達する新たな<深手>であるか知るのには、少しの時間が必要である。少なくとも私の場合は、そうだった。幼いときから、今になるまでずっと変わらずに。今宵、ここにしたためるエピソードにおいても、それは同じ。深夜の緊急連絡を受けたとき、私は不謹慎にも「あら、終に…」と小さな笑い声すらあげたのだから。 そのとき私は、熊(ぱんだ)柄のダンボールが堆積する深山の奥で草臥れ果て*1、折しも発掘した一冊の句集を読み耽っていた。タイトルは『癌め』(江國 滋、角川書店 (1999/04) )。 作家であり評論家であり俳人でもあった江國は、検診で堂癌の告知を受け、癌センターへ入院。十時間余りの大手術、水一滴飲めぬ苦しさを越え、最期を迎えるまでの半年(187日)間に、

    世界で一番小さな海。 - kananaka's blog
  • 女がひとり頬杖をついて。 - kananaka's blog

    今週のお題 病院に行くときは、必ず数冊のを持参する。自宅に在庫がなければ、必ずゆく道のどこかで書店に寄る。楽しいでなくてもよい。悲しいを選ぶ必要もない。ミステリーでも、恋愛小説でも、ルポルタージュでも、お伽話でも、何でもかまわない。けれど、どうしても譲れないものがある。それはある程度の分厚さがあること。膝の上に鎮座するの重さが、ともすれば粟立ち浮足立つ自分をどっしり地べたに根づかせてくれる、そう頑なに信じている。 公衆の面前で涙が流れてしまうとき、それを隠す方法は読書する姿を装うこと、それがもっとも自然で適切だ。目を伏せ、うつむき、を読む。その瞬間、周囲の光景やざわめきがすっと遠のいて、外界は薄絹の向うに分かたれる。見開きのペエジの中で私が追うものは、見知らぬだれかの身に起きた架空の物語などでなく、私自身の忘れがたい思い出に他ならない。冷静に見つめなおしてみたい過去や、目を背けた

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  • 結ぶこころ 繋がるいのち。 - kananaka's blog

    今週のお題:○○料理が好き! かつて母が母であった頃、彼女が子供たちのために結んだおむすびは、冷えてなお、ほっこり温(ぬく)かった。行方知れずとなった父母に代って、老いた育ての母が持たせたおむすびは、ほんのり越後の海の味がした。生れて初めて自分で丸めたおむすびは、呆れるほど歪(いびつ)で握りも甘い代物だったけれど、泥団子つくりの名人を小さな料理人へ変えた瞬間となった。田美奈子と同じ病で此の世を去った恋人が、いつか元気になったとき最初にべたいと望んだのも、「おむすび」だった。定番のシャケやタラコを中に詰め、外側をしっかり海苔で包(くる)む、漆黒のおむすび*1だった。 べ終った駅弁の外側を再利用したおむすび弁当。 改札を抜けると、手作りおむすびの店舗が目に入った。大きな切出し窓の向こうで白衣の男性店員が2名、かたち良く飯を結んでゆく。職人的な繊細な指さばきが、店内の視線を集めていた。 ひ

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    pita-gora
    pita-gora 2010/06/18
    おめでとうございます^^
  • 続・春になれば苺を摘みに。 - kananaka's blog

    2月17日付はてなブックマークニュース『シロップ煮やジャムはいかが?春の「いちご」をもっと楽しもう』の記事にて、拙エントリ『春になれば苺を摘みに』をご紹介いただいた。実は先のエントリでは、一記事あたりのボリュームを抑えるため、苺ジャムレシピについての公開を先延ばしにしていた*1ため、ご紹介記事のタイトルに添えるよう、これでも精一杯、絶不調の愛機*2に鞭打って、エントリを入力していたりする^^; 先日、開店してまだ間もないコンフィチュール専門店があると聞き及び、さっそく情報提供者と共に足を運んだ。目的はただ一つ、新しいレシピに向けてのアイディア入手。色とりどりの可愛らしい瓶詰めを前に、連れ共々ひとしきり嬌声をあげ、興奮冷めやらぬひと時を過ごした後、ふと「そもそも、コンフィチュールとは何ぞ」の疑問がムラムラ沸き起って来た。さっそく品定め中の連れに疑問をぶつけたところ、「それ、ジャムのオサレな

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  • さみしくなると言ってみる。 - kananaka's blog

    「コイデ」は、ネコである。名に格別の意味はない。「コイデ 03-xxxx-xxxx」と達筆で記された首輪をかけていたので、それがそのまま通称となった。「コイデ」が他所でどう呼ばれていたかは知らない。「コイデ」は色々な家庭に上がり込んでは家人の歓待を欲しいままにする、地域でも有名なアイドルネコだったから、幾つもの源氏名を使い分けていても不思議はないのだ。 もともと「コイデ」は他所(よそ)の家のネコである。正確にいえば、<コイデさん家(ち)のネコ>である。とはいえ、コイデ家においても、固有の名があったわけではない。小さな庭つきの一軒家で晩年を過ごすおんな主(あるじ)であるコイデさんは、たくさんのネコに囲まれて暮らしており、一匹一匹のこまやかなケアにまで手が回らなかった。コイデ家のネコたちは避妊手術を施された後、共通の出自を首元に明記され、あるものは「外ネコ」の道に戻るべく旅に出て、あるものは一

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  • 醸す女。(一部ブクマにお返事を追記) - kananaka's blog

    今週のお題:好きな調味料 ひとり暮らしを始めて以来、味噌仕込みは長く我が家の年中行事だった。昔から味噌作りは「寒仕込み」と言って、雑菌が繁殖しにくい1〜2月、つまり今がちょうど仕込みの時期に当たる*1。待ちに待った仕込みの日には、朝から豆の炊ける香りが家じゅうに立込める。足許に目を落とせば、この日に備えて、よく洗い乾かしておいた年代物の仕込桶や重石が、持ち主ともども期待に満ち満ちて、塩や麹を丹念にまぶされたタネが叩きこまれるのを待ち構えている。手仕込みの味噌は「美味しくて黴ないお味噌」と友人の間でも評判で、たっぷりのお出汁に溶いて頂く味噌汁は「手前味噌」のことばを返上する程に、とびきりの出来栄えであった。 そういえば、生まれて初めて手に入れたキッチンは、ひどく狭かった。ガスコンロは小さな口がひとつあるきりで火力も弱く、電子レンジはもちろん、電気釜さえない。流しは鍋ひとつ洗うにも苦労するほど

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  • 雪ぶどうのマリアージュ。 - kananaka's blog

    きのこと果物の美味い秋が過ぎ、季節は山眠る師走。来この季節は、ジャム師にとって骨休めの時期である*1。次の格始動の目安は、値を下げた苺、寒さが緩んでボケ始めた林檎が出回る晩冬〜早春。大量のジャム作りに備え、季節を問わず土鍋が登場する我が家でも、そろそろ土鍋が土鍋来の調理器具に復職できる季節となったわけだ。 そんなある日の昼休み、<カモ(またの名をブログの影の功労者・果樹園農家の後継氏*2。)>が<ネギ>を背負ってやって来た――もとい、いらっしゃった。 「冬ぶどうがあるんだっけぇ*3。―――要る?」 「要る!」 いつものごとく、二つ返事で商談は成立。相手も心得たもので、すかさず<ネギ>を差し出て寄こす。いちいち喜びと驚きを隠さない(隠せない)私の反応が、最近彼の娯楽と化しているんだそうだが、そんなモンはジロジロ観察せんでヨロシイ(汗) いそいそ包みを覗き込んでみると、暗紫色に輝く立派

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  • ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog

    ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見放されるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体であるわたし達を見放すのです。 (『海を流れる河』"失語と沈黙のあいだ"より引用) そう日社会へ警鐘を鳴らしたのは、詩人石原吉郎(1915-1977年)である。彼は24歳で召集され、敗戦後ソ連のラーゲリ(強制収容所)にて抑留、その後スターリン死去による特赦で帰国を果たすまでの8年を、シベリア各地を転々と過ごした。懐かしい祖国の土を踏んだ時、石原はすでに38歳になっていた。 石原が身を投じた最北8年の歳月は、私の想像も及ばぬ世界である。しかし、彼が遺した散文からその苛酷さを想像することは可能だ。 十七のときに抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの<少年>が、声をころして泣いているさまに、私は心を打たれた。泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった

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  • 縛られるのは好きですか? - kananaka's blog

    女に生まれついたことが悔しかった。女であることが苦しかった。男に生まれ変わりたいと願った。でも今更、男になろうとは思わない。いくらさらしを巻き、体のラインの見えない服を着ようとも、髪を刈り、武道を習い体を鍛えても、そこまでが私の限界だった。進学先の下級生(♀)に告られ、教鞭をとった女子高で数通のファンレターをもらっただけだった。今となれば、相手の気持ちなど考えもせず舞いあがっていた、当時の自分の短絡さがイタイ。持病を抱えたとき、医師に妊婦並の高さの女性ホルモン値を指摘され、気力や気概のベクトルだけでは、生れもっての肉体を凌駕できないことを悟った*1。今は、それらの葛藤を過去形で語れる程度には、自身の性を諦観したつもりだ。 マジョリティであるだけで君臨しているケモノには腹が立つ。時に、ありえない詭弁と個人的妄想を弄し、「男ってさ」「女なんだから」という枕詞を駆使しては、殊さらに被害者を貶め、

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  • 「クズどもを追い払ってください」 - kananaka's blog

    「男って言うのはな」 「女ってね」 酔ってもいないのに語り始める人がいる。何故だかこちらを諭すように。 「男はプライドが高いんだから立ててあげないと」 「女の幸せは結婚だ」 「男は不器用なんだ」 「女は恋に生きる生き物だ」 ブラウン管の中のキャスターも、当たり前のように言う 「世の男性は必見」 「女性なら誰もが」 そこに語られている「男」って「女」って、誰だ? その人がそう思うのは構わない。企業がマーケティング戦略を立てることは否定しない。けれど、それを何処にも彼処にも応用し、一般化しないで欲しい。「一般化できる」と受け手に錯覚させないで欲しい。刷り込みしないでほしい。 テレビを見ないため最近の事情は知らないが、ひと昔前は主夫あるいは男性看護士を取扱うドラマや映画にさえ、幼い子どもに向かって「男の子でしょ」と、ことばを投げる大人が登場した。それが物語のアンチテーゼやアイロニーとして使われて

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  • 柿編む女。 - kananaka's blog

    今週のお題: 秋の夜長の過ごし方 軒先に並ぶ吊し柿を眺めると、幼いころ身を寄せた初冬の越後の匂いが蘇る。年のいった育ての親に代わり、寒風に吹かれつ木に登り*1、葉の落ちた梢に残る鮮やかな果実をひとつひとつもいでゆく。指先に吸いつく竹竿の冷たさもさることながら、夜なべに渋(しぶ)でベタベタの手で皮剥けば、かじかむ指先は切れるよう。小さな手に、あっという間にアカギレやシモヤケができてゆく。それでも吊し柿つくりは、豪雪に閉ざされる彼(か)の地の冬支度に欠かせない年中行事であり、子どもたちに任される大切な仕事でもあった。 「柿の実は、ぜんぶ刈っちゃ、らめらすけ*2」 はるばる越後にやって来た私たち姉弟に、育ての母は言い聞かせた。 「木守り(きまもり)さまを、残さばなんねすけ*3」 それは、寒さに凍えるメジロやスズメ、モズたちへの心遣いであるとともに、今年の実りに感謝し、来年の新たな収獲を祈り行われ

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