・『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、本ページでは多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し、多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(