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ブックマーク / www2.harimaya.com (2)

  • 武家家伝_多羅尾氏

    ・『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、ページでは多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し、多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(

  • 武家家伝_西岡被官衆

    三つ巴は向日神社、三つ葵は向日神社の神紋。西岡被官衆の用いた家紋は不明だが、かれらが信仰した両神社の紋を使用した可能性もあると思われる。(両神社の境内にて撮影) 山城国中西部に位置する乙訓郡と、葛野郡の桂・川島付近をあわせた一帯は、中世には西岡(にしのおか)と呼ばれていた。西岡は上六ヶ郷に属する徳大寺・上桂・下桂・川島・下津林・寺戸、下五ケ郷に属する牛ケ瀬・上久世・下久世・大薮・築山の上下十一ヶ郷からなっていた。西岡は桂川の西部に位置して桂川の水を用水として利用し、当時から農業用水路も発達し、経済力も豊かで、全国でも有数の小領主がひしめく土地であった。 「雍州府志(ようしゅうふし)」によれば、「西郊三十六人衆は、公方譜代の士なり」とあり、西岡には室町将軍家の家臣(被官)で三十六人の武士がいたことが知られる。記録などから、物集女氏、神足氏、中小路氏、革嶋氏、小野氏、竹田氏、野田氏らの諸氏で、

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