「虚から実に目覚めよ」訴え 西部邁さんが「自裁死」してから3週間が過ぎた。あらゆる事象を破砕して、そして忘却という器に移していく社会は、彼の自裁死もまたそのサイクルに組み込みつつある。 しかし私はいまだにそのサイクルとは無縁である。なぜ西部さんは自らの命を絶ったのか。それを単に個人のレベルで考えるのではなく、歴史の文脈で捉えなければ、彼に申し訳ないとの思いがするからである。 個人的な関わりになるが、中学1年生のときに2年生の西部さんと知り合った。私は、札幌郊外から中心部の中学に越境入学したのだが、西部さんも隣の駅から同じ中学に通っていたのである。毎朝夕、2人で会話を交わした。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く