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<虫プロ>に関するprisoner022のブックマーク (61)

  • アトムという産業革命(1/3) | ひびのたわごと

    手塚治虫スペシャルと題された特集記事のなかで、 富野と杉井ギサブロー氏が虫プロ時代の手塚治虫氏について語っている。 巷間言われる手塚氏や虫プロの印象とはひと味違った、 内部関係者からの思い出話になっている。 SPECIAL CROSS TALK 杉井ギサブロー×富野由悠季 「アトムという産業革命」 今日は「手塚治虫とアニメ」というテーマでお二人にお話をお伺いいたします。まず今回、富野監督に編集部から打診させていただいたのですが、その折りに対談の相手には、是非「杉井さんを」とのことでした。その理由からお聞かせいただけますでしょうか? 富野 というのもですね、僕はあくまで『鉄腕アトム』の2年目に虫プロに入社した後発部隊の人間ですから、基的に手塚先生ともそれほど直接のコンタクトがあったわけではない。だから、僕の前の世代の人たち、あの時期の巣のママの手塚治虫を知っている人の話を聞いてみたいとい

  • りんたろうから見た富野演出とは - ひびのたわごと

    今日は前回のYASに続く「富野喜幸を語る」のご紹介。 今回は富野虫プロ入社時の直属上司りんたろう氏による富野評。 お互い商業主義につぶされずに頑張りたいね。 りんたろう ―虫プロ時代演出助手として富野さんを使っていたとお聞きしましたが。  たぶん記憶している限りでは、富野氏が日大を卒業して虫プロに入ってきたばかりの頃ですね。僕の演出した何目かの作品で彼を知ったんです。 ―それは、富野さんが最初に演出をした「ロボット・フューチャー」をやる前ですか。  かなり前のことだと思いますよ。僕が『アトム』」の演出をしていたのは最初の20目あたりですから…。彼がしゃかりきになって頑張りだしたのが『鉄腕アトム』の後半あたりからで、その頃僕の方は『ジャングル大帝』に移ってましたからね。 ―その頃のことについて富野さんは、虫プロの核となるべき精鋭部隊が『ジャングル大帝』の方へ全員行って、残った富野さん達が

  • WEBアニメスタイル_COLUMN

    と言われたりもしたものです。確かに東映の『ホルス』『長』『どうぶつ宝島』も好きです。丁寧に作画された被写体を自然にカメラが追って……動画枚数何万枚の大作ばかり。これらは間違いなく映画です。でも、動画枚数も制作期間も少なく作られたであろう、虫プロのTVシリーズ『佐武市』『どろろ』『ジョー』にも映画を――いや、あえて“にこそ”もっと映画を感じるのは俺だけですかね?

    prisoner022
    prisoner022 2009/12/24
    ケレン(外連味)――俗受けをねらったやり方。はったりやごまかしの意  とは言うものの、それがなくて映画って作れるでしょうか? いや、逆に ケレン味さえあれば少なくとも“映画に見せる”事はできる
  • 手治虫ファン大会 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 昨日の歩数:20801歩 起床時間:5時20分 血圧  :111  62 脈拍  :68 体温  :35.3℃ 体重  :64.6kg --------------------------- 渋谷シダックスホール手治虫ファン大会 初めて地下鉄で渋谷まで行く。 10時30分には会場に着く。 手塚プロ森室長、田中さん、ファンの大関さんなどに会う。 控え室で既に届いていた「誰も知らない手治虫」の40冊に小林先生が見える前に自分のサインを入れておく。 11時小林先生見えてにサインを始める。 河井先輩が見えチョコレートの差し入れ。そしてサインを書いた後の消しゴム入れ。 12時40分柴山先生と石津先生が見える。 13時前に高橋先生も見える。 松谷社長と手塚眞さんご挨拶にお見えに

    手治虫ファン大会 - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/11/22
    実験アニメーション「タバコと灰」1965年制作。 しかしこの作品は月岡貞夫さんの作品 手塚先生はお金を出しただけの制作
  • 時代を駆ける:富野由悠季/3 「トリトン」認められ、喜び - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇YOSHIYUKI TOMINO <虫プロダクションを67年に退社し、アニメ制作の現場をいったん離れた。虫プロは73年に倒産(その後旧虫プロ労組を中心に今の虫プロ設立)。アニメ業界の人材を輩出してきた虫プロだが、富野さんの評価は辛い> 辞めた理由はいろいろありますが、一番大きいのは飽きたということです。虫プロは映画やアニメの志が低かった。手塚治虫信奉者の集まり、ファンクラブなんです。僕は手塚ファンではなく、アトムファンだった。そのアトムでさえ、全部が全部ほめられた話ではないと考えていたから、なじめなかった。 手塚先生は短編アニメの名手ですが、長編はかなり凡才です。結局、マンガ家なんです。マンガという紙の媒体に映画的フィーリングは転写できるということです。映画はリアルな時間を想定して表現できないといけない。残念ながら、多忙すぎる先生は、そういう計算をする余裕がなかったのです。 <退社の翌6

    prisoner022
    prisoner022 2009/11/05
    虫プロは映画やアニメの志が低かった/手塚先生は短編アニメの名手ですが、長編はかなり凡才です。結局、マンガ家なんです/「海のトリトン」は視聴率が悪く、半年間・27話で打ち切り
  • 虫プロ商亊倒産 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 虫プロ商亊は版権管理や出版をおこなっていた。 出版で「COM」の運営は苦しくなって休刊してしまったりしたが、版権というロイヤリティは、作品が出来上がり、キャラクター商品が売れれば、黙っていても入ってくるので楽な運営であるはずであった。 しかし、美味しいところには多くの心無い人たちが群がった。 昭和46年9月虫プロ商亊から、組合争議の火の手が上がった。結果手塚治虫が虫プロ商亊の責任を引き継ぎ、社長となった。 手塚先生は当然多忙、実務は社長代行が牛耳った。その彼が企画した幼児向け新雑誌「れお」が惨憺たる赤字を生んでいった。 経営状態は急激に悪化していった。人員整理など梃入れしたが,窮状を打開できず、昭和48年には虫プロ商亊の運営は、債権者委員会によって行なわれていた。 手塚社長

    虫プロ商亊倒産 - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    商亊の倒産は、虫プロダクションとは全く関係ない/マスコミが虫プロ商亊と、虫プロが、影響あるよう/過大に報道/一般の人たちも虫プロ商亊と虫プロを、混同/虫プロダクションのイメージが、落日のように落ちていった
  • 虫プロ倒産 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 「鉄腕アトム」などで有名な漫画家の手塚治虫さん(47)の作品を一手に映画制作してきた「株式会社虫プロダクション」=東京都練馬区富士見台2の30の5、川畑栄一社長(38)=が、このほど多額の不渡り手形を出し、事実上の倒産をした。 1973年11月6日 読売新聞 「鉄腕アトム、劇画に敗れる」 -よりー 虫プロダクションという会社にたいして、世間では「手塚治虫の作品を作っていた会社」と、勘違いされていたことがわかります。 実際には、手塚作品でないものも制作していたし、原作であっても、手塚先生が、関わっていない作品も多くありました。 手塚先生は、虫プロイコール手塚治虫、と社会では思われる、ということを、いつも心配しており、そのため、自分が、関わらない手塚原作作品には、「自分の名前を

    虫プロ倒産 - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    そんな暇があったのなら、Nさんの事でも調べておいてくれれば、社員の不払い分を含め、もっと被害が少なくなったはず
  • 虫プロ商亊 倒産後に - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 虫プロ倒産後こんなエピソードがあった。ご存じない方もおられると思うので紹介する。 「鉄腕アトムが帰ってくる」   1,975年3月29 日毎日新聞  より <鉄腕アトムがよみがえる> 手塚治虫のマンガでチビっ子の人気をさらった虫プロ商亊は四十八年夏、多額の負債を抱え倒産したが28日午後、東京地裁民事二十部で開かれた債務者会議で。「強制和議」が成立、再スタートすることになった。手塚さんのファンで、再見に努力した会社社長、大西年夫氏(59)が社長に就任、手塚さんは経営から身を引き、マンガ一筋に打ち込むことになった。 新社名は「虫プロ企画」。債権者会議には債権者百五十人のうち八十一人が出席したが、債権者は債権額の28%だけを受け取り、残りの債権を放棄するという条件を認め、和議が成

    虫プロ商亊 倒産後に - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    このひとは前科数犯の常習詐欺師であることが判明、突如行方をくらまして/和議が成立した後であったため、債権者たちからも、ほとんど騒ぎが起きなかった。手塚治虫も負債を返却、事無きに至るという妙な成り行きに
  • ふしぎなメルモ 22話 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 22話 わたし求婚(きゅうこん)されちゃったァ!! 海のトリトンは4月1日からの放送が決まっていた。 手塚先生から、半分をアニメーションスタッフルームというところに出すという話で、手塚プロでの仕事は、2週間で1となっていたので、「海のトりトン」のスケジュールには、あまり問題はなかった。 主導権は手塚プロにあるということと、今度はプロデューサーという肩書きだったので緊張もあった。 アニメーションスタッフルーム側のプロディーサーがワンダースリーで制作を教えていただいた黒川さんであったが、なぜ、スタッフルームのカット表に虫のマークがついていたのか、そんなところに変な疑問を感じていた。 この話が放送されたのは2月が終わろうとしていた。 お母さんが先生をしていた、中学校を、丘の上か

    ふしぎなメルモ 22話 - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    海のトリトンは4月1日からの放送が決まっていた。 手塚先生から、半分をアニメーションスタッフルームというところに出すという話で、手塚プロでの仕事は、2週間で1本となっていた
  • 2007年2月18日のブログ記事一覧-真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 21話 姉(ねえ)チャンなんて大嫌(だいきら)い! 家事に大忙しのメルモ、タッチをおんぶして、朝を作っている。いたずらねこを追いかけ外に出るが、となりの奥さんが赤ちゃんにおっぱいを上げていた。それを、タッチが見て泣き出してしまった。 メルモは、大人になって、タッチにおっぱいを上げようとするが、おっぱいが出ない、そこへ、ワレガラス先生が来ておっぱいの出るわけを説明する。 トトオの幼稚園の父兄参観日がありメルモが行くというのを聞いて、キャンディが残り少なくなっているので、無駄遣いをするなと、ワレガラスはメルモに忠告する。 トトオの父兄参観日の日メルモは、大人に変身しないで父兄参観日に行く、そのためトトオは恥をかき、帰宅してからメルモに怒って「お姉ちゃんなんか嫌いだい」といって

    2007年2月18日のブログ記事一覧-真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    手塚先生は/何か不穏な空気を予知していたのかも/それでも、手塚先生は/それほど/彼に感謝していたし、絶大の信頼を寄せていた/あとで思えば、おかしな原動はありましたが、忙しいなかなので、疑うなどということは
  • 2007年2月15日のブログ記事一覧-真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 第18話 「3650日の恐怖」 1月が5週もあり、精神的なきつさも感じていた、今回は辻さんの脚に、平田さんに再度絵コンテをお願いした作品でした。 雑誌の編集者たちから、文句が来た。 メルモのスタジオにいることが多く、手塚プロの映画部2階にはほとんど居る事がなくなっていた。そしてマネージャだった、平田さんや手塚卓さんも、目の前にある、ひろみプロの仕事が忙しく。島方さんがお帰りになると、手塚先生についている人がいなくなっていた。 そんな中、編集者たちの制止を振り切って、西崎さんが、先生と、何度か合っている、困る、という苦情であった。 西崎さんにあって、事情を聞くと、海のトリトンのことで、緊急に打ち合わせしなければならないことがあったので、仕方なく強引に手塚先生と、打ち合わせを

    2007年2月15日のブログ記事一覧-真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    西崎さんにあって、事情を聞くと、海のトリトンのことで、緊急に打ち合わせしなければならないことがあったので、仕方なく強引に手塚先生と、打ち合わせをしてしまった、というのであった。
  • 初めての危機 - 真佐美 ジュン

    昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」 緊急役員会議が開かれた。 穴見さんの死後、虫プロ制作の、すべてのフィルム資産をフジテレビに譲渡して、1億3千3百8十8万円をフジテレビから借りていたことが発覚した。虫プロ商事創立のころで商事を立ち上げるとき、穴見常務に、会社印と役員印鑑を預けていた、だから穴見常務が勝手にそんな契約をした、という事になった、事実はなぞで、死人に口なしである、個人的には内緒では勝手にやらないと思っているし、当座の運転資金に借りたのであっても、返していく目算があったのだと思う。 いずれにしても、手塚社長と役員は青くなって対策に苦慮した。 そのご、何とか交渉し、フィルムの所有権は取り戻すことができたが、放送権は10年間フジテレビが専有する事となり、その後の契約も不利な条件を飲まざるを得なくなってし

    初めての危機 - 真佐美 ジュン
    prisoner022
    prisoner022 2009/09/14
    穴見さんの死後、虫プロ制作の、すべてのフィルム資産をフジテレビに譲渡して、1億3千3百8十8万円をフジテレビから借りていたことが発覚/常務が勝手にそんな契約をした、という事に/事実はなぞで、死人に口なしである
  • Animation Meister - Vol.6 杉井 ギサブロー | 文化庁メディア芸術プラザ

    1940年、静岡県出身。アニメーション監督。19歳でアニメーションの世界に飛び込み、日初の長編アニメーション映画『白蛇伝』にアニメーターとして関わる。虫プロで『鉄腕アトム』などを監督、『日昔ばなし』シリーズを立ち上げたと同時に日各地を放浪し、10年あまりのブランクを経て『ナイン』『タッチ』といったあだち充作品で復帰。1985年の『銀河鉄道の夜』で絶対的な評価を得る。現在、同じく宮沢賢治作品の『グスコーブドリの伝記』を製作中。 わずか19歳で日初の長編アニメーション『白蛇伝』に参加。手塚治虫との出会いとテレビアニメ『鉄腕アトム』の誕生。10年におよぶ放浪の旅。そして傑作『銀河鉄道の夜』の誕生。日のアニメ史とともに歩みつづけるアニメーション監督、杉井ギサブロー氏に、アニメの過去と現在、そしてテレビアニメ以降のアニメの可能性についてうかがった。 ——杉井さんは1958年からアニメーショ

    prisoner022
    prisoner022 2009/07/25
    手塚先生がその後もアート系の作品をつくっていたら、僕は虫プロには入っていなかった/個人作家の自主映画のような作品づくりにはあまり興味がなかった
  • 虫プロ全史となる予定『小説手塚学校』 - 漫棚通信ブログ版

    皆河有伽『小説手塚学校 日動画興亡史 1巻 テレビアニメ誕生』(2009年講談社、980円+税、amazon、bk1)読みました。 うーん、これはおもしろい。 手塚治虫が設立したアニメーション製作会社虫プロダクションが、いかに始まり、そして終わっていったかを書いた長編。第1巻は手塚が東映動画「西遊記」に参加するところから、虫プロを設立し、TVアニメ「鉄腕アトム」放映が開始されるところまで。 もちろん手塚治虫は主要登場人物ですが、群像の中のひとりという扱いで、日アニメ草創期にたずさわったひと、多くが主人公。 「小説」とありますが、登場人物たちの行動や発言はその出典が細かく記載されてます。全編これリファレンスでできたようなです。 いわゆる研究書と異なるのは、著者自身が関係者にインタビューなどをしてるんじゃなくて、ほとんどをありものにたよっているところ。膨大な量の書籍、雑誌、ムック、新聞記

    虫プロ全史となる予定『小説手塚学校』 - 漫棚通信ブログ版
  • 虫プロがアニメーターの劣悪環境を決定づけたという嘘 - 法華狼の日記

    手塚治虫がTVアニメの制作費をダンピングしたことは事実で、現在のアニメーターが困窮している一因とはいえるが、虫プロのアニメーターは意外と高給をとっていた。当時に虫プロへ通っていた女性アニメーターが良い服装をしていたという証言もある。 漫画家として高収入をえていた手塚治虫が金にあかせてアニメ界を押しつぶしたわけではない。今のように商業アニメが多数作られていたはずもなく、東映動画以外の会社は単独で成り立つ力があったとはいいがたい。虫プロは放送局へアニメを売る時点でこそ赤字だったが、関連商品の版権で黒字にさせていた。作品としてのアニメを至上と考えるなら、アニメを関連商品のCMでしかない代物にしてしまったという批判は成り立つが*1、アニメーター環境は当時にあって悪くなかった。 実は、対する東映動画の労働環境こそ良いものではなかった。アニメを作品として成立させるだけの技術と時間こそあったが、仕事に見

    虫プロがアニメーターの劣悪環境を決定づけたという嘘 - 法華狼の日記
  • 虫プロのアニメ技術7つの発明 - ひびのたわごと

    4/17放送の「週刊手塚治虫」への富野出演回を前に、 ちょっと調べておきたいことがあって、ロマンアルバム7「鉄腕アトム」に目を通していた。 欲しかった情報は得られなかったのだが、それとは別に面白そうな記事を発見。 虫プロが「鉄腕アトム」を週一で放送するために、 試行錯誤して生み出した技術を紹介している。 バンクシステムや3コマ打ちはいろいろと逸話が伝わってはいるが、 それ以外にも初めて聞くような事項もあり興味深い。 虫プロのアニメ技術7つの発明 日で最初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を成立させるためには、いくつかの画期的な技術革新が必要であった。それが今日のテレビアニメの原型をつくったのだ バンクシステム 「鉄腕アトム」製作にともなう新方式として、あまりにも喧伝されすぎたきらいはあるが、たしかに前例のない、画期的な方法としておおいに製作上の負担を軽くし、有効なシステムであった。  

  • WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第86回 マッドハウスの2度目の黄金期

    今回は「第80回 『ユニコ』」で少し触れた、マッドハウスの2度目の黄金期について書きたい。マッドハウスは、元々は、虫プロダクションの『あしたのジョー』チームが独立し、設立したスタジオだ。1970年代には、出崎統・杉野昭夫コンビがクリエイティブの中心になり、『エースをねらえ!』『家なき子』『宝島』等の傑作を残した。それが最初の黄金期だ。1980年10月にTV版『あしたのジョー2』が始まるが、その放映中に出崎・杉野コンビが独立して、あんなぷるを設立する。 出崎・杉野コンビがいなくなった後のマッドハウスが面白い。まず、手がける作品が、劇場作品ばかりになった。東映動画の『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の各話など、多少はTVシリーズにも参加しているのだが、この時期のマッドハウスの仕事は、9割以上が劇場作品であるはずだ。監督はりんたろう、平田敏夫、真崎守が主力。いずれも虫プロダクション出身の

  • オレのブログ ~元小さな会社の経営者日記~ 「虫プロOB達による感謝展」に行ってきました! そしてバレンタインの奇跡も……

  • 手塚治虫の息子たち - ひびのたわごと

    prisoner022
    prisoner022 2009/02/15
    僕の場合だと/極端に完成度を追わない作り手/自分がこういうことをアニメーションにしたいなというのが第一義/一つの映像を完成度高く磨いて、磨きこんでいくっていう創り方では全然無い。
  • 「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る

    臭くなければ客は付かない デジタルやインターネットが決定的に有利なのは、マンツーマンの作業が可能だけれど、そのスタッフが目の前にいる必要がないという部分。それ以上の機能は基的に認めたくないと思っているぐらいです。便利だから全部利用するのはいかがかと思うが。技術は全否定しているわけではないということも了解していただきたい。 その上でどう融合させていくかは、現在から10年、20年後の成功を目指すなら考えて下さい。ぼくは10年後には死んでます。だからもう努力する必要がないんです。が、みなさんがたは不幸にしてまだお若い。不幸にしてあと50年は生きたい。できたら男性も女性も、いい愛人が欲しいと思っているなら、獲得しに行かないといけないんです。 問題なのは、獲得するためのそのための欲望をどう充足させるか。自分の欲望を素直に見つめないで、迂回路をとってきれいなもの、かわいいだけのものを触っていたらクリ

    「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る
    prisoner022
    prisoner022 2008/11/02
    おもちゃ屋のスポンサー(バンダイ)/安彦(良和)くん/大河原邦男/その出会いを許してくれる制作会社というプロダクションがあった/漫画家主宰の虫プロダクションのような所ならこの出会いはなかった