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ブックマーク / bushoojapan.com (6)

  • 宮沢賢治の意外すぎる経歴~実家はリッチで当人は感化されやすい性格

    昭和8年(1933年)9月21日は宮沢賢治の命日である。 誰もが一度は読んだことがある童話や詩。 いかにも数多の作品が世に送り出されたイメージのある賢治だが、実際に書籍を出したのは37年の短い生涯で2冊だけ。 1924年の詩集『春と修羅』と、童話短編集『注文の多い料理店』である。 意外なことに、その中には 『雨ニモマケズ』 『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 といった著名な作品も収録されていない。 近代日を代表する大詩人にしては、あまりに少ないが、一体これはどういうことか。 稿では、注目されそうであまり注目度の高くない「宮沢賢治の歴史」を振り返ってみよう。 お坊ちゃまとして過ごした青春宮沢賢治は明治29年(1896年)8月27日、岩手県花巻市で生まれた。 父・政次郎が22歳で、母・イチは19歳。 若い夫婦にとって初めての子どもかつ長男であり、いかにも苦労して育てられた雰囲気もある。 なん

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  • 新説・信繁「逆転の大戦略」! 城郭考古学が浮かびあがらせた大坂夏の陣とは? - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    prozorec
    prozorec 2016/12/19
    歴史街道の千田先生の寄稿は12/16の歴史秘話ヒストリアの第二、第三の真田丸に関する内容
  • 後三年の役~頼朝の高祖父・義家を武士のシンボルに高めた戦いとは?

    前九年の役で清原氏にチカラを借りた源氏前九年の役で謀反を起こした安倍氏(陸奥=宮城・岩手県あたり)。 東北地方の将兵は、古来より馬術・弓術に優れているとされ、鎮圧にやってきた源氏軍だけでは制圧が難しく、そこで大きな役割を果たしたのが同じ東北の清原氏(出羽=山形県)でした。 当時の源氏軍トップである源頼義が、近場で勢力を持っていた清原光頼&清原武則兄弟に協力を頼み、源氏軍の倍以上の兵(記録では1万とも)を調達してもらったのです。 清原氏は、同エリアで一・二を争う有力者だったんですね。 結果、源氏&清原氏が勝利。 報奨として源頼義は伊予守に任ぜられ、息子の源義家も出羽守になると、清原武則も鎮守府将軍となり、奥羽支配を進めました。 そして前九年の役から二十年ほどが経ち、どの家でも世代交代が起きていました。 後三年の役の頃、清原氏の当主は清原武貞(たけさだ)という人でした。 彼は先との間に清原真

    後三年の役~頼朝の高祖父・義家を武士のシンボルに高めた戦いとは?
  • 前九年の役で源氏が台頭! 源頼義と義家の親子が東北で足場を固める

    康平五年(1062年)9月17日は前九年の役が終結したとされる日です。 といっても 「いつの時代で、どこの話?」 「名前だけ聞いたことあるような気がする……」 という人のほうが圧倒的多数の予感。 しかし、源頼朝や武田信玄など、武家としての源氏が大きく羽ばたくキッカケとなった事件でもあり、源平・戦国時代をより深く楽しむための重要な転換点だったりします。 まずはこの戦があった平安時代の展開をダイジェストで確認しておきましょう!

    前九年の役で源氏が台頭! 源頼義と義家の親子が東北で足場を固める
  • 応仁の乱って一体何なんだ? 戦国時代の幕開け乱戦をコンパクト解説

    文明九年(1477年)11月11日は【応仁の乱】が終結したとされる日です。 そもそも始まり方がグダグダで、終わった日についても諸説ありますが、今回は吉川弘文館さんの書籍『今日は何の日事典』(→amazon)に準拠させていただきました。 11月11日というのは、東西の総大将だった細川勝元や山名持豊の死後、惰性的に戦っていた畠山氏や大内氏が兵を引きあげた日なんですね。 学校の教科書より、もうちょっと詳しく。 全体の流れと影響を見ていきたいのですが、応仁の乱は京都だけの合戦でもなく、全国を巻き込んでいますので、各地での戦闘にも目を向けるほうが良さそうな気がします。 人名・地名はできるだけ省いてコンパクト解説に取り組んでみたいと思います。

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  • 本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明

    能寺の変の直前に、四国の長宗我部元親が明智光秀の重臣にあてた書状が発見されました。 林原美術館(岡山市)と岡山県立美術館が23日に発表しています。 天正10年(1582年)6月2日に勃発した【能寺の変】の理由を巡っては、単独思い付き説、朝廷黒幕説など数多くありますが、なかでも有力なのが四国説。 当初の信長は、四国をめぐって光秀を交渉役(厳密には今回の書状宛先である重臣・斎藤利三)にして、長宗我部に対して 「四国は切り取り次第(勝手にやってくれ)」 と約束しました。 しかし、信長は光秀から秀吉に四国担当を交代して、長宗我部に「やっぱり、チミは土佐と阿波の半分だけねテヘペロ」とちゃぶ台をひっくり返すのです。 この流れに光秀が大きなストレスを抱えたことは間違いなく、能寺の変を起こす引き金になったといわれています。 今回、見つかったのは、岡山市の林原美術館が所蔵する戦国時代の古文書類「石谷

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