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不破の関の検索結果1 - 31 件 / 31件

  • 実家から近い市民の森公園のツバキとソメイヨシノ - 🍉しいたげられたしいたけ

    東海地方の平野部では、ソメイヨシノが満開を迎えつつある。 今年は実家から近い市民の森羽島公園というところで、花見をしてきた。あまり混んでなさそうで無料駐車場があるから、ここを選んだ。 のっけからいらんこと言いの悪癖発揮だが、門標後ろの看板の文言がなんか怪しい。 弊ブログ勝手に恒例文字起こし。 この公園は、市民の 楽しい憩いの広場です。 豊かな「みどり」と 美しい「花」を守り、 香り高い文化と 宇宙の真理に 直接ふれあいましょう。 奉仕とは宇宙の心の 実践の姿である 〝MOTTAINAI〟 もったいない 育てよう 心豊かな青少年 おかげさま ありがとう いちおう弁明をすると、ここは「宇宙庭園」「万葉庭園」など区画ごとにテーマが設けられていて、宇宙云々というのはそのうち宇宙庭園を踏まえたものと思われる。 以前に説明文の文字起こしをしたことがあった。 www.watto.nagoya 上掲の門標

      実家から近い市民の森公園のツバキとソメイヨシノ - 🍉しいたげられたしいたけ
    • 【ブラタモリ山科編】で知った新たな新幹線乗車時のマニアックポイントと「今日の俺メシ」 - うめじろうのええじゃないか!

      こんばんわー ええっと・・あれは先月でしたっけ^^;? 「ブラタモリ」山科編、面白かったですね~!(私だけ^^;?) 更には「梅田編」も面白かったですね~!ダンジョンがあんなにアップダウンがちょいちょいある理由がよ~く解りました(^^)! 山科編ではオープニングでタモリさんがブラブラしていたのが疏水沿いだったので・・キタ・・!ついにブラタモリで【本圀寺】に切り込むのか・・! a-jyanaika.hatenablog.com と一瞬期待しちゃったんですが・・全然ちゃいましたね~^^;笑 あそこは山科疏水の「展望広場」という場所だったんですね・・あんなとこあったんだ・・・! totteoki.kyoto.travel そしていきなり逢坂峠だったんで・・おおう・・私もちょいちょい「通勤路」!と一気に興奮しちゃったんですが・・^^;東国・北国・西国の街道が一か所に纏まる当時の交通の要衝だったんで

        【ブラタモリ山科編】で知った新たな新幹線乗車時のマニアックポイントと「今日の俺メシ」 - うめじろうのええじゃないか!
      • 司馬遼太郎をゆく【不破の関跡】壬申の乱@岐阜2022 - うめじろうのええじゃないか!

        こんばんわ、由緒正しきおっさんの休日のあり方、「司馬遼太郎をゆく」です(^^) 今回訪れたのは関ヶ原にある「不破の関」。 これは旧中山道でしょうか、非常に狭く曲がった道が古の雰囲気を醸し出しています。 この背中側には東海道新幹線が走り、深い山の中を切り裂くように跳んでゆく光景は感慨深いですね・・・。先日も出張の折り、スマホのグーグルマップを手にしながら「ここだ!」というポイントを見てやらんと窓外を凝視していたのですが、一瞬にして過ぎ去っておりました^^; 関ヶ原の関とは、いうまでもないことだが、不破の関のことである。 この関は、古代史のなかの関である。奈良朝以前から、畿内の天皇政権にとっての防衛上の関所で、美濃・近江の境界の美濃側に置かれていた。 この不破の関と、北陸道からの敵の乱入を遮断する越前愛発の関、さらには伊勢からの敵をふせぐ鈴鹿の関が、律令時代、天下三関といわれていた。 不破の関

          司馬遼太郎をゆく【不破の関跡】壬申の乱@岐阜2022 - うめじろうのええじゃないか!
        • 壬申の乱1350年記念企画展【大友皇子と壬申の乱】@大津市歴史博物館2022 - うめじろうのええじゃないか!

          この日は久しぶりに【大津市歴史博物館】を訪れました。 滋賀に移住した2019年の春に、いの一番に訪れたのがここ大津市の歴史博物館でした(^^) a-jyanaika.hatenablog.com 目的はそう、もちろん、これです!! 特別展「大友皇子と人の乱」! なんでも、今年は壬申の乱から1350年の節目の年だということで・・・節目としては刻みが細かいな・・とかそういうことは置いといて^^;とにかく1300年超えとか凄過ぎですっ・・!!(あ、年数が4ケタだから50年の刻みが細かく感じちゃったんだ・・驚) 2019年に始めてこちらの博物館を訪れた時にも思ったのですが、まあなにせ歴史が凄いので見応えハンパありません・・! 「壬申の乱」なんて教科書で遠い昔に聞いたような気がするくらいの・・ともすればおとぎ話?くらいの認識にて、それがどこで起こったものかさえ知らずに・・ここに来てみたら「ここかよっ

            壬申の乱1350年記念企画展【大友皇子と壬申の乱】@大津市歴史博物館2022 - うめじろうのええじゃないか!
          • 防人の歌(9)・・・巻第20-4372 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

            訓読 >>> 足柄(あしがら)の 御坂(みさか)賜(たま)はり 顧(かへり)みず 我(あ)れは越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しやはばかる 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行(ゆ)く 馬(むま)の爪(つめ) 筑紫(つくし)の崎(さき)に 留(ち)まり居(ゐ)て 我(あ)れは斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申(まを)す 帰り来(く)までに 要旨 >>> 足柄の御坂を通していただき、後を振り返らずに私は越えてゆく。荒々しい男でさえ立ち止まってためらう不破の関を越えて、私は行く。馬の蹄がすり減って尽きるほど遠い筑紫の崎にとどまって、私は身を清めて神に祈りを捧げよう。故郷の衆のみんなが達者でいてくれるように、と。無事に帰って来るまで。 鑑賞 >>> 常陸国の防人、倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)の歌。「足柄の御坂」は神奈川県と静岡県の県境にある足

              防人の歌(9)・・・巻第20-4372 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
            • 奈良の石造物遺跡が勢揃い【飛鳥資料館】で古代史ミステリーを楽しむ@奈良2022 - うめじろうのええじゃないか!

              こんばんわー 昨年2022年秋、奈良の奈良文化財研究所【飛鳥資料館】を訪れた時の記録です(^^) 「大人の修学旅行」と銘打って奈良の石造物遺跡を探訪して参りましたが、このような施設があった事を最近まで知りませんでした^^; お庭には石造物のレプリカがたくさん展示されていました。 ここを見学すれば点在する奈良の石造物遺跡を巡らなくていい、なんて書き込みもありましたが^^;なるほどどうして、よく再現されたレプリカですよね~・・・ このレプリカを造る技術も、それはそれですげえな・・なんて感心しちゃいました・・! 亀石だとか猿石だとか、いろいろありますよね~ これなんか、麒麟の田村さんにしか見えないんやけど・・・笑 不思議な石造物がいっぱい・・・ 古墳の石棺もありますね~・・・ これは私的にちょっと怖いんですよね・・・ あまり見たいとは思いません^^; これは橘寺の「二面石」でしたっけ? 橘寺でも

                奈良の石造物遺跡が勢揃い【飛鳥資料館】で古代史ミステリーを楽しむ@奈良2022 - うめじろうのええじゃないか!
              • 幻の花 ~ 第十七章  帰り旅小町 - 小説広場「花咲く森」

                貞観十年(八六八年)秋、小町は出羽に来た時と同じメンバーで、帰京の途についた。沢山の親戚縁者に惜しまれ、小町たち一行は雄勝の桐木田館を出発した。業平の帰える時と同様、出羽郡司、小野葛絵らに多賀城まで送ってもらい、それから信夫の里、小野の里などを経て南下した。業平たちに追いつきたいと思ったが、それは不可能なことであった。小町の従者、雉丸は勿論のこと、在原家の家来、石川長綱、平岡馬足も帰京出来るとなって喜び勇んで帰路を急いだ。ほとんど来た時と同じ道を引き返した。小町は都に帰る感慨を歌に詠んだ。 乱れ咲く 萩の細枝を踏み分けて 勿来の関を また越へるかな そこには再び、煩わしい都の生活に挑戦しようとする小町の意気込みが感じられた。一行は美しい海辺を磯崎に向かって進んだ。阿字ヶ浦では貝拾いなどして楽しんだ。常陸の国に入ると、国府を経て、再び小野源河の所に一泊させてもらった。父、良実の墓参りが出来た

                  幻の花 ~ 第十七章  帰り旅小町 - 小説広場「花咲く森」
                • 『関東はいつから関東になったんだ?…』

                  さて…現在の関東地方を関東というのはなんでだ?…と素朴に思いましたですよ… 中国地方は平城京や平安京からの距離が中ぐらい…ということを知っていたけどさ…7世紀には不破の関(現岐阜県)、鈴鹿の関(現三重県)、愛発の関(現福井県)よりも東側が関東(関の東側)と呼ばれていたのは知ってたけど… ほぼほぼだけど…どうやらきっかけは源頼朝さんらしいっす…頼朝さんが自分の政権を関東と呼称していたらしいっす… 江ノ電…鎌倉から江ノ島に向かってま~す… 頼朝さんは幕府の命に背いて、勝手に朝廷からの官位を貰った御家人に「尾張(現愛知県)の墨俣川以東にやって来たら命はないものと思え」という自筆の書を残しているので… 関東の認識はちょっと東進してるのかな?…そんでもって、鎌倉幕府が鎌倉にあったこと、室町幕府が鎌倉に関東管領を設置したこと… 現関東が関東になっていったんじゃないのかな…17世紀には関八州という言葉も

                    『関東はいつから関東になったんだ?…』
                  • 壬申の乱も関ヶ原から―なぜ同じ場所で戦われたのか - U-runner's View

                    江戸時代の始まりを決定づけた関ヶ原の戦いがあったのは、1600年(慶長5年)の9月15日(今の暦では10月21日)。私たちは2年前(2021年)の11月に、合戦や陣屋の跡が観光史跡になり始めたこの関ヶ原に行ってきました。 入りは前泊をした大垣から。大垣は岐阜県(美濃)の内陸の方と京を結んでいた中山道の宿場町で、関ヶ原合戦の直前に石田三成が拠点としていた場所としても有名です。関ヶ原合戦は、西軍が東軍の西進を「防衛ライン」としての大垣で止める籠城戦にもなり得たところが、結果的に西軍が原に出たことで野戦になったんですよね。 この関ヶ原が何の「関」がある原だったかというと、不破の関。江戸時代が始まるまでは、京を中心とした畿内の東側の防衛ラインが、愛発(敦賀)、鈴鹿、そしてこの不破でした。この不破がなぜ、壬申の乱(大海人皇子=後の天武天皇=が攻めの態勢を整えた)、青野原の戦い(南朝方の北畠顕家が京に

                      壬申の乱も関ヶ原から―なぜ同じ場所で戦われたのか - U-runner's View
                    • 明智家の勝手方 - 34:父を越える

                      天正九年(1581年)七月。 東山道(とうさんどう)は律令(りつりょう)時代に遡(さかのぼ)る古い幹線道路のひとつだ。 京から東へ向かい近江に。不破の関を越えて美濃へ。 岐阜城下から可児(かに)郡、土岐(はじ)郡、恵那(えな)郡を抜けて信濃へ。 「武田征伐。何年も構想として練られてきたが、現実は難しい」 信忠に招待される形で岐阜城を訪れた金造は、美濃と信濃の絵図を前に、青年武士から講習を受けていた。横からは、信忠も興味深そうに絵図をのぞいている。 青年武士は信忠とほぼ同年代。小柄だが引き締まった体に、母や弟たちともよく似た、愛らしい顔がのる。 「兵糧が続かぬためだ。前の関東管領(かんとうかんれい)による越山(えつざん)が、長駆(ちょうく)して小田原城を囲むも、大軍を維持することができずに解散したようにな」 ギロと、青年武士が金造の顔を睨(にら)む。 童顔なだけに、細い目をすると表情に迫力が

                        明智家の勝手方 - 34:父を越える
                      • ツーリング日和3(第9話)関が原 - 新小児科医のつぶやき

                        朝風呂入って、朝飯食べて、今朝はノンビリ出発や。なんせロープーウェイが動くのが九時からやし、宿からロープーウェイの駅まで近いしな。 「観光地料金ね」 しゃ~ないと思うけど、駐車場でも料金取られたわ。普通車千円も結構なもんやけど、バイクでも五百円や。ロープーウェイも往復で二千四百五十円、リフトが往復で六百五十円や。それでもこれで御在所岳の頂上まで登れるやから文句も言えんよ。 「コトリ、すごい」 「おぉ、こりゃ、あれカモシカちゃうか」 料金でボヤいたのをすぐに忘れてもた。ロープーウェイを下りたら朝陽台広場で記念写真。 「なんで鳥居があるんやろ」 「コトリが知らなかったら誰も知らないよ」 少し歩いて富士見岩展望台や。 「あれって富士じゃない」 「ホンマに見れるんや」 条件が良うないと見えんらしいけどラッキーや。伊勢湾が一望やもんな。リフトが動き出したから頂上へ。リフトは一旦下ってから上がるんやけ

                          ツーリング日和3(第9話)関が原 - 新小児科医のつぶやき
                        • 青墓(岐阜県大垣市)

                          青墓といえば、源朝長だろう。 能の演目として「朝長」があり、二番目物の修羅物で、とっても暗い。 「朝長」のオープニングで旅の僧が近江路から青墓の宿へやってくる場面 近江路や 瀬田の長橋うち渡り 瀬田の長橋うち渡り なほ行く末は鑑山 老蘇の森をうち過ぎて 末に伊吹の山風の 不破の関路を過ぎ行き 青墓の宿に着きにけり 青墓の宿に着きにけり

                          • 正岡子規の俳句

                            あたたかな雨が降るなり枯葎ある僧の月を待たずに帰りけりいくたびも雪の深さを尋ねけりこの頃の蕣(あさがほ)藍に定まりぬしぐるるや蒟蒻冷えて臍の上しんとして牡丹崩るる夜中哉つり鐘の蔕(へた)のところが渋かりきのどかさやつついて見たる蟹の穴みちのくへ涼みに行くや下駄はいてをととひのへちまの水も取らざりきイモウトノ帰リ遅サヨ五日月一匙のアイスクリームや蘇る一桶の藍流しけり春の川三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ五月雨や上野の山も見あきたり何となく奈良なつかしや古暦元日の人通りとはなりにけり六月を奇麗な風の吹くことよ四時に烏五時に雀夏の夜は明けぬ夏嵐机上の白紙飛び尽す夏瘦の骨にとどまる命かな夕立や殺生石のあたりより妻よりは妾の多し門涼み小夜時雨上野を虚子の来つつあらん市中や苗代時の鯰売幾度も雪の深さを尋ねけり我声の風になりけり茸狩我宿は女ばかりのあつさ哉押分けて行けは行かるる萩の原春の夜や屏風の陰に物の

                              正岡子規の俳句
                            • 壬申の乱とくるべ遺跡 - 花の四日市スワマエ商店街

                              壬申の乱に関しては、皆様よくご存じと思います。首謀者は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でなく別に黒幕がいたという説もあります。ロマンです。 太古の昔から、天皇の席をめぐり、殺し合いが繰り広げられてまいりました。まず、仏教導入派の曽我氏と、神道を守る物部氏の論争で曽我氏が勝利(587年)しますが、その後、曽我氏の横暴が続き、曽我入鹿(そがいるか)は天皇候補者であった聖徳太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害に追い詰めます。 頭にきた、中大兄皇子と中臣鎌足は、曽我入鹿を殺害(大化の改新645年)しますが、中大兄皇子は天皇になる間もなく、朝鮮半島では百済から援軍の要請が来ます(白村江の戦663年)。しかし、朝鮮半島への進出野望もむなしく、4回の海戦ですべて惨敗。中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)となって国内の体制固め(律令国家)に入ります。

                                壬申の乱とくるべ遺跡 - 花の四日市スワマエ商店街
                              • 関ヶ原もう一つの天下分け目の戦い 壬申の乱  2018.09.02 - 散歩と写真(京都・大阪ほか) Walker'SceneryPhotos in Kyoto and Osaka etc

                                ★★★目次★★★ 再び関ヶ原へ 移動はレンタサイクルがいい! 関ヶ原駅 壬申の乱 弘文天皇陵墓候補地 井上神社 ★★★★★★★ 再び関ヶ原へ 二年ほど前、関ヶ原にいったことがある。 関ヶ原の戦いの史跡を歩いて見て回った。 関ヶ原は広い、古戦場となると、一ヶ所一ヶ所は、離れている。 十分に見て回れなかった。 帰りに、壬申の乱の史跡もあるのに気づいた。 その時は、壬申の乱には興味なかった。 今回は、壬申の乱の史跡をたどってみよと関ケ原に行った。 前回は、「青春18切符」で行った。 今回も、「青春18切符」で行った。 新大阪から1時間45分、途中米原駅で乗り換え。 今回は、壬申の乱の史跡と前回行けなかったところを行こうと思った。 移動はレンタサイクルがいい! 駅前に、「関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原」で、レンタサイクルを借りることができた。 電動アシストの自転車を借りた。 4時間1,000円

                                  関ヶ原もう一つの天下分け目の戦い 壬申の乱  2018.09.02 - 散歩と写真(京都・大阪ほか) Walker'SceneryPhotos in Kyoto and Osaka etc
                                • 第十四章「東下り小町」 | 歴史散策

                                  唐衣きて馴れにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をとぞ思ふ 貞観十年(八六八年)桜の咲く三月、深雪山に隠れ住んでいた傷心の小野小町は、体調も万全では無いが回復し、秘かに在原業平と会った。そして都に残して行く母と姉のことを業平に依頼し、こっそりと出羽の国へ出かけた。父、良実の墓参りが主目的であった。この出羽の国への旅は大変なものであった。何故なら遠い辺境の地まで旅することは、恐ろしい危険が沢山、伴うからであった。小町は業平に反対されても、出羽の国に行くことに頑なだった。何故、そんな恐ろしい旅をするのか。その理由は、清和天皇の後宮になることを、嫌った訳では無い。また業平に相手にされないからでも無い。藤原基経や遍昭親子、あるいは安倍貞行兄弟、紀友則、長谷雄、菅原道真らに、やたら付きまとわれたからでも無い。その理由は、見えざる手によって片輪者にされた悲しみを癒す為と、父、良実の供養の為であった。業

                                    第十四章「東下り小町」 | 歴史散策
                                  • 藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その1(治承4年~建仁元年)

                                    (甚之助蔵 藤原定家『明月記』全3巻、国書刊行会、明治44年刊) さて、フィールドワーク編も終わったということで、これからは例の後鳥羽院単推しのママとの共同研究(←大袈裟w)をちょいちょい記事にしていってみようと思います。 まずその最初に、生前の後鳥羽院の姿を知る上で貴重な史料となる歌人・藤原定家の日記『明月記』に描かれている院像を見ていきます。 今回は"その1"として後鳥羽院の名前が出ている『明月記』の記事の年月日をピックアップし、その時期に院と定家はどのような関係性・交流があったかをみていきたいと思います。 ちなみに後鳥羽院の名前が初めて『明月記』に登場するのは建久3年4月10日条、最後に登場するのは文暦元年6月3日条になります。 私の所蔵している『明月記』(全3巻、国書刊行会、明治44年刊)を底本とし、各巻ごとの元号区分を示すと ・第1巻 治承4年(1180)~建永元年(1206)

                                      藤原定家『明月記』にみる後鳥羽院の姿 その1(治承4年~建仁元年)
                                    • 兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第四十六回 | 神戸っ子

                                      絵画 中右 瑛 白砂青松の名所「須磨・舞子」 須磨・舞子の浜辺一帯は老松が生い茂り、青い松と白い砂浜は古来より「白砂青松」の名勝として名高い。白砂の海岸は、いまは宅地開発の防砂工事などで河川からの土砂の流入が減り、海岸侵食が進行し、美しい砂浜は減少した。また松林も道路拡張や整備による伐採や松くい虫の影響、松の老朽化などで衰退の憂き目に遭っている。 また須磨周辺は源平合戦の古戦場(一の谷合戦)で、松林の公園内には「戦の浜」の石碑が建ち、近年は桜の名所となっている。 「一の谷合戦」で戦死した清盛の弟・薩摩守忠度は、その前夜、桜満開の須磨寺の境内で和歌を詠んだ。 ゆきくれて 木の下かげを宿とせば 花やこよひの あるじならまし 忠度は壮絶な最期を遂げたが、箙に結んでいたこの和歌「旅宿の花」が辞世の句となり『千載和歌集』に「詠み人知らず」として収められている。 須磨・舞子は、海の彼方には遠く淡路島が

                                      • 関ケ原へ行きました。

                                        旅行業50年の実績と経験による、とっておきの旅行情報をお届けしております。 国内はもとより世界55か国を巡った、おもしろおかしいエピソードも添えています。 拙いブログではありますが、どうぞご覧ください。 4月24日、岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約50周年記念式典が行われました。 コロナ禍の為、昭和46年(1971年)7月27日の締結から1年遅れの50周年式典の挙行となった。 1971年のアルバムを開くとまだ20の大学生、岐阜県と言えば東京から特急あずさで北アルプス縦走をし飛騨側への下山口の認識ですっかり忘れていました。 私の故郷、鹿児島県では教科書の副読本で薩摩義士の勉強をしますが具体的な場所までは覚えてませんでした。 社会人となり結婚。 何年か後岐阜へ赴任。 子供を連れて国営木曽三川公園や長島温泉へ良くでかけた。 まさにその場所が宝暦治水の場所と分かったのは県人会のボランティアに参加してか

                                          関ケ原へ行きました。
                                        • 日本地質学会 - 平安時代の「日本三代実録」の地震・津波・噴火記録:地震西進系列の白眉

                                          図1.「日本三代実録」から読み取った毎年の地震数の変化.本文で述べた大地震の発生年を矢印で示す.(クリックすると大きな画像をご覧いただけます) 日本地震周期表(石渡,2019)は最近約360年間の日本の被害地震の時空分布をまとめ,大地震(≧M7.5)が東北日本から関東甲信越・西南日本を経て琉球・台湾へと110〜180年かけて西進すること,その地震系列が約120年周期で繰り返すことを示した.そして,南海トラフ地震の年号により,各西進系列を宝永,安政,昭和,最新と名づけた.例えば,1677延宝三陸・房総沖−1703元禄関東−07宝永南海トラフが宝永系列を代表する地震であり,1793寛政仙台沖−1847弘化長野善光寺−54安政南海トラフが安政系列を代表し,1896明治三陸−1923大正関東−44・46昭和南海トラフが昭和系列を代表する. 東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)は最新系列前半

                                          • 幻の花 ~ 第十四章  東下り小町 - 小説広場「花咲く森」

                                            貞観十年(八六八年)桜の咲く三月、深雪山に隠れ住んでいた傷心の小野小町は、体調も万全では無いが回復し、秘かに在原業平と会った。そして都に残して行く母と姉のことを業平に依頼し、こっそりと出羽の国へ出かけた。父、良実の墓参りが主目的であった。この出羽の国への旅は大変なものであった。何故なら遠い辺境の地まで旅することは、恐ろしい危険が沢山、伴うからであった。小町は業平に反対されても、出羽の国に行くことに頑なだった。何故、そんな恐ろしい旅をするのか。その理由は、清和天皇の後宮になることを、嫌った訳では無い。また業平に相手にされないからでも無い。藤原基経や遍昭親子、あるいは安倍貞行兄弟、紀友則、長谷雄、菅原道真らに、やたら付きまとわれたからでも無い。その理由は、見えざる手によって片輪者にされた悲しみを癒す為と、父、良実の供養の為であった。業平は、そんな危険を顧みない小町に、小野家の従僕、雉丸だけでは

                                              幻の花 ~ 第十四章  東下り小町 - 小説広場「花咲く森」
                                            • 柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首

                                              父母等は未詳。生年も未詳であるが、大化元年(645)前後と見る説が多い。その名は上代の史書に見えず、閲歴については万葉集が唯一の確実な資料とされている。 制作年の明らかな最初の歌は持統三年(689)の草壁皇子挽歌(2-167~170)である。持統四年(690)二月の持統天皇の吉野行幸に従駕し、歌をなす(1-36~39)。翌年九月、川島皇子が薨じ、殯宮のとき泊瀬部皇女に献る歌(2-194,195)がある。持統六年三月の伊勢行幸に際しては京に留まり、行幸に従駕した「妹(いも)」を恋慕する歌を詠んでいる(1-40~42)。同年冬には、軽皇子の安騎野遊猟に供奉し、作歌(1-45~49)。持統十年(696)七月、高市皇子が薨ずると、挽歌を作る(2-199~202)。万葉集最大の雄編である。 持統天皇譲位後の文武四年(700)四月、明日香皇女(天智天皇の皇女。新田部皇女と同母)薨去の際、挽歌をなす(2

                                              • 【岐阜/御嵩町】国道沿いに「鬼の首塚」…ここで一体何があったのか?(旅人間) - エキスパート - Yahoo!ニュース

                                                はらぺこライターの旅人間です。今回は鬼の伝説について…。 日本各地には昔から伝わる物語や伝説、興味深い地名など色々あります。その中でも鬼に関する話は多いですね。 そこで今回は、岐阜県に残る「鬼伝説」の一つを取り上げてみましょう。 ここは国道21号沿いにある「鬼の首塚」と呼ばれているトコロ。場所は岐阜県可児郡御嵩町です(可児御嵩バイパス沿いではありません)。 鬼の首塚…ここで一体何があったのか、知っていますか? 簡単に言えば、ここは「鬼の首」が埋められていると伝わる場所。 では、何故ココに? この鬼の名は「関の太郎」と言います。 不破の関(現在の関ヶ原)の生まれから、その名が付いたのだとか。ここに”首塚”がある理由を「関の太郎物語」から簡単に説明すると…。 「関の太郎物語」について一説によると、正治元年(1199年)の頃、かつて「関の太郎」と呼ばれていた恐ろしい鬼(野盗・山賊とも)が洞窟に住

                                                  【岐阜/御嵩町】国道沿いに「鬼の首塚」…ここで一体何があったのか?(旅人間) - エキスパート - Yahoo!ニュース
                                                • 壬申の乱戦場考 - 横から失礼します

                                                  壬申の乱の戦場について考えた話です。 前回の話 壬申の乱経過 意外と狭い範囲で どうして他の地域が出てこないのか 前回の話 前回の記事は、壬申の乱の開戦についての話でした。 リンク:壬申の乱開戦考 『日本書紀』における壬申の乱が開戦するまでの経緯は、大海人皇子が天智天皇からの譲位を辞退し、出家の後吉野に下ったにもかかわらず、天皇側に攻める意図が見られたために、兵を挙げたとなっています。 つまり、大海人皇子側が共有の意を示したのにも関わらず、攻められたのでやむを得ず反撃した、という立て付けになっているわけです。 とはいうものの、天智側の行動に対して、打てば響くような挙兵だったことから、実際には最初から大海人皇子側も、やる気満々だったのは明らかだという話でした。 壬申の乱経過 そんなことで始まった壬申の乱の経過を、簡単に見てみたと思います。 引用元:壬申の乱|関ケ原町歴史民俗学習館 大海人皇子

                                                    壬申の乱戦場考 - 横から失礼します
                                                  • 松尾芭蕉の俳句

                                                    古池や蛙飛びこむ水の音旅に病で夢は枯野をかけ廻る海くれて鴨のこゑほのかに白し雲の峰いくつ崩れて月の山姥桜さくや老後の思ひ出年は人にとらせていつも若夷花の顔に晴うてしてや朧月盛なる梅にす手引風も哉あち東風や面々さばき柳髪餅雪をしら糸となす柳哉花にあかぬ嘆やこちのうたぶくろなつちかし其口たばへ花の風うかれける人や初瀬の山桜糸桜こやかへるさの足もつれ風吹けば尾ぼそうなるや犬櫻春立とわらはも知やかざり縄きてもみよ甚べが羽織花ごろも花にいやよ世間口より風のくち植る事子のごとくせよ児櫻目の星や花をねがひの糸櫻天びんや京江戸かけて千代の春此梅に牛も初音と鳴つべし我も神のひさうやあふぐ梅の花門松やおもへば一夜三十年大比叡やしの字を引て一 霞猫の妻へついの崩れより通ひけり竜宮もけふの塩路や土用干先しるや宜竹が竹に花の雪庭訓の往来誰が文庫より今朝の春かぴたんもつくばはせけり君が春大裏雛人形天皇の御宇とかや初花

                                                      松尾芭蕉の俳句
                                                    • JR関ケ原駅のスタンプ

                                                      【旅のスタンプ帳】 > 東海地方 > JR東海 > 関ケ原駅 設置情報・スタンプ押印難易度 難易度:☆☆☆☆☆(常設スタンプ廃止) 所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 設置場所:JR関ケ原駅改札窓口(駅員に依頼が必要) 改札窓口営業時間:5:20~11:00 11:20~12:00 13:00~14:30 15:10~19:00 20:05~22:00 (2020/3/1現在) 廃止されたスタンプ JR関ケ原駅(JR東海道本線)のスタンプ JR関ケ原駅のスタンプです。 わたしの旅スタンプ「古戦場に戦国の夢しのぶ駅」をイメージしたスタンプです。 ◆スタンプ情報◆ 所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 設置場所:JR関ケ原駅改札窓口(駅員に依頼が必要)(現在なし) サイズ:縦7cm、横7cm、四角形 色:黒 状態:普通 ◆スタンプを押した日◆ 不明 ◆押した人◆ オークション入手 JR関ケ原駅(

                                                        JR関ケ原駅のスタンプ
                                                      • Z0688-1-008 - ArtWiki

                                                        和漢百物語『不破伴作』 翻刻 「不破伴作」 茂林家三勇士の一個にして強気驍勇の壮者なり 名古屋高木の二勇と約してともに古寺に怪異を試し変化の主体をみとめしといふ 絵師:芳年 落款印章:一魁斎芳年 改印:丑八年 慶応一年(1865年)八月 版元:大黒屋金之助・金次郎 不破伴作は茂林家の三勇士の一人にして、気が強く勇ましい若者であった。名古屋と高木の二人を伴い、共に古寺に住む怪異の主体を見極めたという。 <あらすじ> 森家三勇士伝 揚名舎桃李口演、今村次郎速記。成立年は明治29年(1896年)。上記の話は是に拠る。この浮世絵成立年より30年も下った話である。冒頭に鞘当のことに触れながら、「(不破名古屋の)その実をば尋ぬれば黒白ほどの相違もあれど、先んでて人を制すのは世の習ひ」と述べており「されば不破名古屋の実録は是なりといふも信ぜざる者もなきにあらねど」と、歌舞伎でもって世の中に定着してしまっ

                                                        • 『岐阜県不破の関「垂井の泉」の聖武天皇御聖蹟』

                                                          昨今の歴史家からは、「謎の迷走」などと批評される事の多い聖武天皇ですが、この聖武天皇による奈良→伊勢→美濃→紫香楽→恭仁京という行幸、及び遷都には大きな政治的、且つ祭事的意図があったと推察する。 当時、新興勢力であった藤原氏が台頭しつつある過渡期にあり、皇族出身の橘諸兄を側近として、曽祖父たる天武天皇の聖蹟を辿り、再び皇祖神の神威を高める為の祭事が道すがらに行われた事は、三重県四日市に遺る久留倍官衙遺跡からも明確に窺われる。

                                                            『岐阜県不破の関「垂井の泉」の聖武天皇御聖蹟』
                                                          • 【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

                                                            9月15日に行われた関ヶ原合戦は「天下分け目の戦い」といわれているが、関ヶ原が戦いの場所に設定された理由はご存じない方が多い。今回は、その理由を探ることにしよう。 ■関ヶ原の地理的環境 戦国時代の戦いは、おおむね国境付近で勃発したことがすでにいくつかの研究で指摘されている。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦も、実は同じである。 以下、諸研究に基づき、関ヶ原の地政学的な分析から、関ヶ原が戦いの場所に選ばれた理由を考えることにしよう。 関ヶ原は、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町に所在する。古くから中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にもあたり、宿駅が置かれる交通の要衝だった。 地理的にいうと、関ヶ原は岐阜県の南西端に位置しており、伊吹・鈴鹿両山地に挟まれた小盆地である。 関ヶ原は、毛利氏が陣を置いた南宮山、家康が本陣を置いた桃配山、小早川秀秋の陣所の松尾山などの山々に囲まれていた。 ■関ヶ原は

                                                              【戦国こぼれ話】なぜ関ヶ原合戦は、関ヶ原で戦うことになったのか。誰も知らなかった意外な理由(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
                                                            • 夏の甲子園 優勝旗が「不破の関」を越えたのは、いつ?―天下分け目の関ケ原 | 岐阜新聞Web

                                                              続きを読むにはログインしてください。 「電子版単独コース」「岐阜新聞併読コース」会員限定記事です。 無料会員の場合は、マイページからコース変更手続きができます。各コースの詳細はこちら。

                                                                夏の甲子園 優勝旗が「不破の関」を越えたのは、いつ?―天下分け目の関ケ原 | 岐阜新聞Web
                                                              • 25歳になった千尋_高尾山

                                                                さて、赤色の円の部分が今回探索した地域。それでは青い円の部分は? このGoogleMap には、中山介山『大菩薩峠』の「小名路の巻」や「禹門三級の巻」「無明の巻」で登場した地名もマッピングしてありました。 小仏峠、駒木野宿、小名路、蛇滝、高尾山、高尾山薬王院、炊谷、十一丁目、大平、上野原など。そう高尾山とその近辺です。 今回、冒頭の武蔵野市、三鷹市、調布市、府中市あたりからの移動シーンと雰囲気の似ている街道、国道20号線(甲州街道)や都道173号線(北野街道)、160号(野猿街道)、47号線(町田街道)を辿っていくと、どれも高尾山に行き着いてしまいます。 鈴木プロデューサーは『大菩薩峠』について語っています。 「団塊の世代の教養と感性」の持ち主の鈴木さんは、机竜之介の非情に徹したニヒリズムに感動したらしいのですが、自分としては、『大菩薩峠』が面白くなるのは「間の山の巻」以降なので、鈴木さん

                                                                  25歳になった千尋_高尾山
                                                                1