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岡倉天心の検索結果1 - 10 件 / 10件

  • 日本文化が大好きなベトナム人留学生に「聞きたいことがある」と言われ二つ返事でOK→質問の内容に血の気が引いた話

    みねるば @minerva_owl1 ベトナム人の留学生から「私日本文化が大好きです!聞きたいことがあるんですけどいいですか?」と聞かれ、「もちろんいいですよ!(アニメや漫画とかかな?)」と答えたのですが、「岡倉天心の『茶の本』についてなんですけど」と言われ、血の気がサーッと引くのを感じました。それで 2023-12-05 18:38:44 みねるば @minerva_owl1 『東洋の理想』の方はギリ読んだことがあったので、そちらの知識で答えられたのですが、宮沢賢治の話を振られた時は恥ずかしながら全然読んだこと無かったので、タジタジになってしまいました。色々と文化の話をしたのですが、彼女が言うには 2023-12-05 18:39:06

      日本文化が大好きなベトナム人留学生に「聞きたいことがある」と言われ二つ返事でOK→質問の内容に血の気が引いた話
    • 岡倉覚三 村岡博訳 茶の本 茶の本

      茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々(じゅんじゅん)と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。というのは、倫理、宗教と合して、天人(てんじん)に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。それは衛生学である、清潔をきびしく説くから。それは経済学である、というのは、複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるから。それは精

      • 岡倉天心 - Wikipedia

        岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。 横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転[1]。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、本人はアメリカでも本名の岡倉 覚三(Okakur

          岡倉天心 - Wikipedia
        • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0075.html

          • 聴くことと聞くこと

            岡倉天心の『茶の本』に伯牙の琴馴らし、という逸話がある。 地下に眠る龍の身体にさえその根をまきつけた巨大な桐の木があった。そこから仙人が琴を切り出す。皇帝がこの琴をやがて秘蔵する。この琴をならそうと名人たちが皇帝の前で挑戦したが、琴は耳障りな音を出すのみ。やがて伯牙がやってきてこの琴に挑戦する。彼は琴を愛撫しそっと絃にふれ、四季の歌、山水の歌を歌う。それに呼応して琴は自らの中から、この琴が目にしてきた自然の移ろい、人々の歴史、そして自ら感じた多様な歓喜を伝え始める。恍惚とした皇帝は伯牙に尋ねる。「どこに成功の秘訣があったのか」と。伯牙は答える。「他の人たちが失敗したのは、自分自身のことばかり歌ったからです。私は琴にみずからの主題を選ばせました。そして琴が伯牙だったのか、伯牙が琴であるか、ほんとうはわかりませんでした」(『茶の本』桶谷秀昭訳)。 岡倉天心はこの逸話から、「真の芸術とは伯牙であ

              聴くことと聞くこと
            • 作家別作品リスト:岡倉 天心

              公開中の作品 茶の本 04 茶の本(新字新仮名、作品ID:1276)     →村岡 博(翻訳者)    →岡倉 覚三(著者) 作業中の作品 →作業中 作家別作品一覧:岡倉 天心 社会と作家 (新字新仮名、作品ID:62119)  →岡倉 覚三(著者) 東邦の理想 (新字旧仮名、作品ID:47026)  →村岡 博(翻訳者) 関連サイト

              • The Book of Tea by Kakuzo Okakura

                I. The Cup of Humanity Tea began as a medicine and grew into a beverage. In China, in the eighth century, it entered the realm of poetry as one of the polite amusements. The fifteenth century saw Japan ennoble it into a religion of aestheticism--Teaism. Teaism is a cult founded on the adoration of the beautiful among the sordid facts of everyday existence. It inculcates purity and harmony, the mys

                • 一場の夢――岡倉天心覚書 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

                  岡倉天心が日本美術院での教え子ジョセフィン・マクラウドを伴ってアジャンタ壁画を見るために渡印したのは1901(明治34)年のことである。アメリカの富豪の娘マクラウドは、かねてより帰依していた聖者ヴィヴェカーナンダをガンジス河畔で天心に引き合わせた。ふたりは一瞬にして互いの偉大さを見抜いた。ヴィヴェカーナンダは天心に告げる。「あなたはここで私を相手に何もすることはありません」と。「タゴールに会いにおいでなさい。彼はまだ生の中にいますから」。 天心は詩聖ラビンドラナート・タゴールの家に半年余り寄寓し、仏跡をめぐり、高僧や反植民地運動の闘士たちと交わった。ある日のこと、ひとりのベンガルの画家が描きかけの絵を持って天心に面会を請うた。天心は彼のスケッチを一目見るなり、その絵の隅に二本のマッチ棒をある角度で置いた。画家は率然としてさとった。彼が描きあぐねていた絵の欠陥とそれを修正する方法がそこに明ら

                    一場の夢――岡倉天心覚書 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
                  • 岡倉天心 ― 芸術教育の歩み ―

                    2007年10月4日(木)-11月18日(日) 月曜休館(ただし10月8日は開館、翌10月9日を休館) 開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで) 平成19(2007)年は、東京美術学校の創立から120周年を迎える記念の年にあたります。 戦後に東京美術学校を継承した東京藝術大学は、これを記念して様々な記念事業を実施いたしますが、 その中心事業のひとつとして大学美術館を会場として開催される展覧会が「岡倉天心 ― 芸術教育の歩み ― 」です。 この展覧会は、本学の創設に深くかかわり、開校まもなく校長となった天心・岡倉覚三(1863-1913)の業績を、 東京美術学校在任時代を中心として、多角的に検証、紹介するものです。 天心の行った美術に関する仕事は、美術学校の教育環境の整備や学生指導にとどまらず社会連携制作の推進、 美術団体の支援、美術行政の整備のほか、博物館事業、美術史の編

                    • 足の早いもやしはレンチンして保存! | NHKテキストビュー

                      変わりつづける。学びつづける。新しい自分に出会うための1ページ。

                        足の早いもやしはレンチンして保存! | NHKテキストビュー
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