広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣田 弘毅、1878年〈明治11年〉2月14日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう、旧字体:丈󠄁太郞)。 外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 「廣田弘毅先生 生誕之地」の石碑 1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。初名は丈太郎(じょうたろう)。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。 亀山上皇像の銘板