吉良 義央(きら よしひさ[1]、寛永18年9月2日〈1641年10月6日〉- 元禄15年12月15日〈1703年1月31日〉)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。元禄赤穂事件の中心人物の一人。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では、敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良 上野介と称される。本姓は源(みなもと)。 概要[編集] 吉良義冬の子。父の跡をついで4200石の高家となり、後に高家肝煎に列し、官位は従四位上左近衛少将まで登ったが、1701年3月14日に指南していた勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)から遺恨ありとして江戸城内で殿中刃傷を受け、浅野は改易・切腹となるも吉良は咎めのないまま隠居した[2]。この両者に対する処分について不満をもった浅野長矩遺臣の大石良雄(内蔵助)以下赤穂浪士は1702年12