サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
Wikipedia
syounagon.hatenablog.com
遠いむかし。地方の民が、 大蔵省へ馬で貢税《みつぎ》を運び入れながら 唄った国々の歌が 催馬楽《さいばら》となったといわれるが、 田楽ももとは農土行事の田植え囃子《ばやし》だった。 それがやがて、都人士《とじんし》の宴席に興じられ、 ついには近ごろの如く、 本座、新座などの職業役者をも生むような流行にまでなって来たものだとか。 「……東《あづま》より……昨日来たれば……妻《め》も持たず」 興にそそられた高氏が、 ふと、膝がしらを鼓として、指と小声で、踊りの曲を真似てると、 となりの遊女も、その流し眼に媚びを凝らして、おなじ節で。 「……着たる紺の……狩襖《かりあを》は要《い》らじ ……聟《むこ》とせむ、聟とせむ」 「ほほほほ。小殿も決しておきらいではございませんのね」 「酒か」 「いいえ、田楽」 「酔うにつれて、いつか舞台も面白う見えてきた。 先頃、七条河原の掛小屋で見たのもこの花夜叉の新
実定の身内のもので、 この京に残っているものは近衛河原の大宮ただ一人、 荒野をさまようにも似た心地の実定は大宮を訪れた。 従者が大門を叩く。 「どなた、蓬の露を払ってまで訪れる人もないのに」 とは女の声、あとは一人呟くともとれぬ声である。 「福原から大将殿がお見えでございます」 「まことでございましょうか、大門には錠がかかっております。 東の小門からお入り下さりませ」 東の小門から内に入った大将は、 南面の格子を開き琵琶を弾いている大宮を認めた。 寂しさのあまり、こうして一人昔のことを偲んでいたのであろうか。 すっと室に入った大将に大宮は夢とばかりに喜んだ。 この席に、大宮に仕えている待宵《まつよい》の侍従がよばれた。 彼女はある時御所で、 「恋人を待つ宵、帰える朝、いずれが哀れまさろうか」 との問に、 『まつよいの更けゆく鐘の声きけば かえるあしたの鶏《とり》はものかは』 と詠み、待つ宵
しかしながら新都の建設は少しずつ進んでいった。 六月九日起工の式、八月十日|上棟《じょうとう》の式、 十一月十三日遷幸と定められ、 人々も多少はゆとりをもってきた。 福原にどうやら新都らしいおもかげが出てきたが、 凶変の重なった夏もすでに過ぎ、秋はすでに半ばである。 人々は仲秋の月に心を慰めた。 福原の新都に落ちついた公卿たちは月見に出かけた。 かねて名所といわれたところや、 そのかみの源氏の宮を慕って人々は須磨から明石へ浦づたいに赴いた。 白浦《しらら》、吹上《ふきあげ》、 和歌の浦、住吉、難波、など景勝の地に月を賞ずるものもあれば、 尾上《おのえ》の曙の月を惜しむものもいた。 もとの都、京に残った者は、これも伏見、広沢で月を仰いだ。 なかでも徳大寺の左大将実定は旧都を忘れかねて、 八月十日すぎ福原を立ち京へ上った。 京に入った彼は、二月のあいだに変り果てた昔の都に心を痛めた。 多くの家
この年六月九日、新都の政事始めとして、造営の計画が練られた。 上卿《しょうけい》には徳大寺の左大将 実定卿《じっていのきょう》、 土御門宰相《つちみかどのさいしょうの》中将 通親卿《とうしんのきょう》、 奉行弁《ぶぎょうのべん》には、 前左少弁行隆《さきのさしょうべんゆきたか》が任ぜられ、 役人多数引きつれて土地の検分を行ない、 和田の松原の西の野を九条まで区割りしたところ、 一条から五条までは土地があったが、それ以上の場所がない。 この報告を受けた政府では、 それなら播磨《はりま》の印南野《いなみの》か、 この摂津の昆陽野《こやの》かなどと公卿会議の席上でも討論されたが、 実行に移されるとも見えなかった。 新都建設は進まず、人心は浮雲のごとく、 すでに住んでいた民はその土地を失い、 新たに移ってきたものは家の建築に苦しみ、 何れも皆心落ちつかずに茫然《ぼうぜん》となる始末である。 夢のご
法皇が世を厭われたのは当然であろう。 あれほど強かった政治への執心も 今は全く薄れ消えたかに思われた。 「今の世の政治にかかわろうとは露も思わぬ。 ただ霊山名刹を廻って修行し、心慰めたいものである」 と側近にもらされていた。 さる安元以来、多くの大臣公卿を殺し、 あるいは流し、法皇を押しこめたり、 第二皇子高倉宮を討ちとるなど、 悪逆非道の行ないを尽している平家の残された悪行は、 都うつりだけである。それでこの挙に出たものであろうか、 などと人々はいい交していた。 もっとも都うつりには多くの先例がある。 神武天皇以来代々の帝王が都をうつすことは 三十度にも四十度にもなる。 桓武天皇の御代、延暦《えんりゃく》三年十月三日に、 奈良の都、春日《かすが》の里から山城国長岡にうつり、 その十年の正月に大納言藤原|小黒麻呂《おぐろまろ》、 参議|左大弁紀古作美《さだいべんきのこさみ》、 大僧都玄慶《
京都の街は公卿も庶民も動揺した。 治承四年六月三日の日、天皇は福原へ行幸し、 都うつりさせ給うとのことである。 都うつりの噂はかねて流れてはいたが、 まだまだ先のことであると人々は思っていた。 それが三日ときまっていたのを一日早められた。 ことの意外に京中はあわてふためいた。 院政に訣別し新帝を擁して 平家独裁政府樹立にふみ切った清盛の意志は固かった。 六月二日午前六時、天皇は御輿にのった。 年僅かに三歳の幼児である。 無心に乗る帝と共に同乗したのは母后《ぼこう》ではなく 御乳母《おんめのと》の帥典侍殿《そつのすけどの》一人、 そして 中宮建礼門院、後白河法皇、高倉上皇も御幸《ごこう》になれば、 太政大臣以下の公卿殿上人、 平家では入道清盛以下一門がつき従った。 一行は翌三日福原に入った。 入道の弟 池《いけの》中納言 頼盛《よりもり》の山荘が皇居にきめられ、 四日頼盛はその賞として正二位
やっとおとどが口を開いて、 「奥様はどうおなりになりました。 長い年月の間夢にでもいらっしゃる所を見たいと大願を立てましたがね、 私たちは遠い田舎の人になっていたのですからね、 何の御様子も知ることができません。 悲しんで、悲しんで、 長生きすることが恨めしくてならなかったのですが、 奥様が捨ててお行きになった姫君のおかわいいお顔を拝見しては、 このまま死んでは後世《ごせ》の障《さわ》りになると思いましてね、 今でもお護《も》りしています」 おとど の話し続ける心持ちを思っては、 昔あの時に気おくれがして知らせられなかったよりも、 幾倍かのつらさを味わいながらも、 絶体絶命のようになって、右近は、 「お話ししてもかいのないことでございますよ。 奥様はもう早くお亡《かく》れになったのですよ」 と言った。 三条も混ぜて三人はそれから咽《む》せ返って泣いていた。 日が暮れたと騒ぎ出し、 お籠《こ
豊後介《ぶんごのすけ》はしみじみする声で、 愛する妻子も忘れて来たと歌われているとき、 その歌のとおりに自分も皆捨てて来た、 どうなるであろう、 力になるような郎党は皆自分がつれて来てしまった。 自分に対する憎悪の念から 大夫の監は彼らに復讐をしないであろうか、 その点を考えないで幼稚な考えで、脱出して来たと、 こんなことが思われて、気の弱くなった豊後介は泣いた。 「胡地妻子虚棄損《こちのさいしをむなしくすつ》」と こう兄の歌っている声を聞いて兵部も悲しんだ。 自分のしていることは何事であろう、 愛してくれる男ににわかにそむいて出て来たことを どう思っているであろうと、 こんなことが思われたのである。 京へはいっても自分らは帰って行く邸《やしき》などはない、 知人の所といっても、 たよって行ってよいほど頼もしい家もない、 ただ一人の姫君のために生活の根拠のできていた土地を離れて、 空想の世
「この道誉とて、鎌倉の恩寵をうけた一人、 なにも世変《せいへん》を好むものではないが、 かなしいかな、天運循環の時いたるか、 北条殿の世もはや末かと見すかさるる。 高時公御一代と申しあげたいが、ここ数年も、こころもとない」 道誉の眸は、高氏の眸をとらえて、離さない。 横にはまた、息をつめて、 彼の顔いろを見すましている土岐左近の毛あなから立ちのぼる殺気があった。 あわてまい、身じろぎも危険である。 と考えてか、高氏は乾きを覚えた唇もしめさずに凝《じ》っといた。 すると、道誉の頬の黒子《ほくろ》がニヤと笑ったと思うと、 高氏の眸から、眸を外した。 「はははは、ご迷惑かな。かかる心をゆるしたおはなしは」 「いや、ご斟酌《しんしゃく》なく」 「かもうまいか」 「おたがい地方の守護たる身。など無関心には」 「さもこそ。お互いは若い」 手繰《たぐ》り込むような語気と、 その体がもっているといえる妙な
この時代にはまだ後世のいわゆる茶道などは生れてない。 けれど喫茶の風は、ぼつぼつ、拡まりかけていたのである。 禅僧の手で漢土から渡来した始めのころは、 禅堂や貴人のあいだに、養生薬のように、 そっと愛飲されていたにすぎなかったが、 近ごろでは “茶寄合《ちゃよりあい》”などという言葉さえ聞くほどだった。 花競べ、歌競べ、虫競べなどの遊戯にならって、 十種二十種の国々の銘茶をそろえ、 香気や色味をのみくらべるのを“闘茶”といい、 その闘茶にはまた、 莫大な賭け物をかけたりする婆娑羅な人々もあるとは ——高氏も、聞きおよんでいたことだった。 けれどいま、道誉が彼をみちびいた離れは、 田舎びた無仏の一堂で、一幅の壁画と、 棚には錫の茶壺《ちゃこ》、 天目形《てんもくなり》の碗などがみえ、 庭園の休み所らしい趣《おもむき》はあるが、 闘茶の茶寄合の俗風はどこにもない。 「……ここなれば人けもなし、
「お待ちなさい。そのお返事の内容だが」 監《げん》がのっそりと寄って来て、 腑《ふ》に落ちぬという顔をするのを見て、 おとどは真青《まっさお》になってしまった。 娘たちはあんなに言っていたものの、 こうなっては気強く笑って出て行った。 「それはね、お嬢様が世間並みの方でないことから、 母がこの御縁の成立した時に、 恨めしくお思いにならないかということを、 もうぼけております母が神様のお名などを入れて、 変に詠《よ》んだだけの歌ですよ」 とこじつけて聞かせた。 正解したところで求婚者へのお愛想《あいそ》歌なのであるが、 「ああもっとも、もっとも」 とうなずいて、監は、 「技巧が達者なものですね。 我輩は田舎者ではあるが賤民じゃないのです。 京の人でもたいしたものでないことを我輩は知っている。 軽蔑《けいべつ》してはいけませんよ」 と言ったが、 もう一首歌を作ろうとして、 できなかったのかその
——ははあ。 かかる態の人物の生き方やら嗜好をさしていうものか。 又太郎はふと思いついた。 ちかごろ“婆娑羅《ばさら》”という流行語をしきりに聞く。 おそらくは、 田楽役者の軽口などから流行《はや》り出したものであろうが、 「ばさらな装い」とか。「ばさらなる致しかた」とか。 または 「——ばさらに遊ぼう」「ばさらに舞え」 「世の中ばさらに送らいでは」などと、 その語意、その場合も、さまざまにつかいわけられている。 むかし山門の法師間には “六方者《ろっぽうもの》”という語があったが、 婆娑羅の意味は、それに近くてもっと広い。 ——花奢《かしゃ》、狼藉《ろうぜき》、風流、 放縦、大言、大酒、すべての伊達《だて》をさしてもいうし、 軌道を外れた行為や、とりすました者への反逆や、 そうした世のしきたりに斟酌《しんしゃく》しない 露悪的な振舞いをも、ひッくるめて、 ——婆娑羅に生きる人。 といった
「さすが花奢《かしゃ》だな、右馬介」 「おなじ守護大名ながら、 下野国の御家風と、ここの佐々木屋形では」 「まさに、月とすっぽん」 ——翌朝、起き出てみると、 総曲輪《そうぐるわ》は砦《とりで》づくりらしいが、 内の殿楼、庭園の数寄《すき》など、 夜前の瞠目《どうもく》以上だった。 遠くの高欄《こうらん》をちらと行く侍女やら 上﨟《じょうろう》の美しさも、都振りそッくりを、 この伊吹の山城《やまじろ》へ移し植えたとしか思えない。 それにつけ、又太郎は、 「当主高氏とは、そも、どんな?」 と、今日の会見が変に待たれた。 やがて。 夜前に約した時刻になると、土岐左近が迎えにみえ、 ふたりを誘ってべつな広間へみちびいた。 上座《かみざ》の茵《しとね》は、 上下なしの意味か、親しみの心か、二つならべて敷いてある。 右馬介は、もちろん末座。 そして又太郎だけが、ずっと進んで、 その一つに着こうとした
ところで“名のり”を高氏と称する当の人物というのは、 その江北京極家の当主であった。 つまりこの地方の守護大名、 佐々木佐渡ノ判官《ほうがん》高氏殿こそがその人なので……と、 土岐左近は、 一応の紹介の辞でもすましたような、したり顔で 「足利家も源氏の御嫡流、佐々木殿も頼朝公以来の名族。 申さばおなじ流れのお裔《すえ》、 ここでお会いなされる御縁が、自然待っていたものとぞんずる」 舌にまかせてここまで述べた。 しかし自分の小細工を疑われてもと、考えたらしく。 「じつは最前、あなた様を佐々木殿と見違えたのは、 供の列を先にやって、野路の茶店で憩《いこ》うておるうち、 ふと、当の殿を見失うたので、 慌てて後より追っかけたための粗忽《そこつ》でおざった。 くれぐれ、無礼はおゆるしを」 そんなことはどうでもいいように、 又太郎は彼方の群れをチラと見やって。 「会う会わぬは、わしの所存でない。佐々木
🙇動画のオープニングは私本太平記24が正しいです🙇 「……さ。いま伺えば、 その若公卿が召連れていた侍童の名は、菊王とか」 「たしか菊王と呼んだと思う」 「ならばそれも、天皇に近う仕えまつる近習の御一名、 前《さき》の大内記、日野蔵人俊基朝臣 《ひのくろうどとしもとあそん》に相違ございますまい」 「どうしてわかる」 「菊王は、後宇多の院の侍者、寿王冠者の弟とやら。 ——そして、とくより日野殿の内に 小舎人《こどねり》として飼われおる者とは、 かねがね聞き及ぶところにござりまする」 「そうか。そう分って、 何やら胸のつかえが下がった気がする。 みかど後醍醐のおそばには、なおまだ、 ああした公卿振りの朝臣《あそん》があまたおるのか」 「は。世上、つたえるだけでも、 蔵人殿のほか、日野参議|資朝《すけとも》、 四条|隆資《たかすけ》、花山院師賢《かざんいんもろかた》、 烏丸成輔《からすまなり
「——いま汝らの怨《えん》じた上の者とは、 みな武家であろうがの。 よいか、守護、地頭、その余の役人、 武家ならざるはない今の天下ぞ。 ——その上にもいて、 賄賂取りの大曲者《おおくせもの》はそも誰と思うか。 聞けよ皆の者」 彼の演舌は、若雑輩のみが目標ではなさそうな眸だった。 「それなん鎌倉の執権高時の内管領、 長崎 円喜《えんき》の子、 左衛門尉《さえもんのじょう》高資《たかすけ》と申す者よ。 うそでない証拠も見しょう。 きのう今日、蝦夷の津軽から兵乱の飛報が都に入っておる。 ——因《もと》を洗えば、それも長崎高資の賄賂から起っておる」 又太郎は、きき耳すました。 はからずも、 彼が長柄《ながら》の埠頭《ふとう》で知った風説と、 それは符節《ふせつ》が合っている。 ——北方禍乱の原因を、なお、若公卿はこう説明する。 津軽の安藤季長や同苗《どうみょう》五郎らが、 一族同士の合戦におよぶま
妙齢になった姫君の容貌は母の夕顔よりも美しかった。 父親のほうの筋によるのか、 気高い美がこの人には備わっていた、 性質も貴女《きじょ》らしくおおようであった。 故人の少弐の家に美しい娘のいる噂《うわさ》を聞いて、 好色な地方人などが幾人《いくたり》も結婚を申し込んだり、 手紙を送って来たりする。 失敬なことであるとも、 とんでもないことであるとも思って、 だれ一人これに好意を持ってやる者はなかった。 「容貌はまず無難でも、 不具なところが身体《からだ》にある孫ですから、 結婚はさせずに尼にして自分の生きている間は手もとへ置く」 乳母《めのと》はこんなことを宣伝的に言っているのである。 「少弐の孫は片輪《かたわ》だそうだ、 惜しいものだ、かわいそうに」 と人が言うのを聞くと、 乳母はまた済まない気がして、 「どんなにしても京へおつれしてお父様の殿様にお知らせしよう、 まだごくお小さい時にも
少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋🪷も ぜひご覧ください🌟https://syounagon.jimdosite.com 🪷聴く古典文学 少納言チャンネルは、聴く古典文学動画。チャンネル登録お願いします🪷 【ふるさと納税】阿蘇のボタニカルのルームポプリとガラスポットウォーマーセット【ボタニカルスープ】 熊本 阿蘇 KINTO キントー ボタニカル オーガニック ハーブ エディブルフラワー アロマ おしゃれ インテリア 限定 贈答 産山村 《60日以内に出荷予定(土日祝除く)》 価格: 43000 円楽天で詳細を見る
年月はどんなにたっても、 源氏は死んだ夕顔のことを少しも忘れずにいた。 個性の違った恋人を幾人も得た人生の行路に、 その人がいたならばと遺憾に思われることが多かった。 右近は何でもない平凡な女であるが、 源氏は夕顔の形見と思って庇護するところがあったから、 今日では古い女房の一人になって重んぜられもしていた。 須磨《すま》へ源氏の行く時に夫人のほうへ 女房を皆移してしまったから、 今では紫夫人の侍女になっているのである。 善良なおとなしい女房と夫人も認めて愛していたが、 右近の心の中では、夕顔夫人が生きていたなら、 明石《あかし》夫人が愛されているほどには 源氏から思われておいでになるであろう、 たいした恋でもなかった女性たちさえ、 余さず将来の保証をつけておいでになるような 情け深い源氏であるから、 紫夫人などの列にははいらないでも、 六条院へのわたましの夫人の中には おいでになるはずで
岸に先手をきっておどりあがった足利又太郎の装立ちは、 赤革縅の鎧、黄金作りの太刀、 二十四本背に差したるは切斑《きりふ》の矢、 重籐《しげとう》の弓を小脇にかいこんで、 乗る馬は連銭|葦毛《あしげ》、 鐙《あぶみ》をふんばって声を轟《とどろ》かせた。 「昔、朝敵|将門《まさかど》を亡ぼした 俵藤太秀郷《たわらとうたひでさと》十代の後胤、 下野国の住人足利太郎俊綱の子又太郎忠綱、 生来十七歳のもの、 かく無位無官の者が宮に弓を引き奉るは恐れ多いことなれど、 弓矢の冥加《みょうが》平家の上に とどまっているものと存ずる。 三位入道の御方のうち、われと思わん人は寄りあい給え、 見参せん」 こう名乗りをあげると、足利は平等院の内へ攻めこんだ。 この有様を眺めた大将軍の知盛は、 全軍に下知して渡河を命じた。 二万八千余騎どっと川に馬を入れれば、 さしも早い宇治川の水もたまらず上流に押し返される有様で
「あれを見い、右馬介」 「おあとに、何か」 「いや、覚一の姿が、まだわしたちを見送っておる」 「はて。見えもせぬ眼で」 「そうでない。見える眼も同じだ。 わしたちを振向かせているではないか」 ——この日、都を離れた主従は、 当然、数日後には、 東海道なり東山道の人となっているべきはずなのに、 やがて正月十日の頃、二人の姿は、 方角もまるで逆な難波《なにわ》ノ津(大阪)のはずれに見出された。 渡辺党の発祥地《はっしょうち》、 渡辺橋のほとりから、昼うららな下を、 長柄《ながら》の浜の船着きの方へ行く二人づれがそれで。 「若殿、どうしても、思い止まりはできませぬか」 「まだいうのか」 「でも、今日の便船にお乗りになってしもうては」 「そのため幾日も船宿で日を暮して来たのに、 この期《ご》となって」 「——が、難波の諸所も、はからず見ましたこと。 このたびは、ぜひこの辺でお引っ返し願いまする。
源氏の公子はその日の成績がよくて進士になることができた。 碩学《せきがく》の人たちが選ばれて 答案の審査にあたったのであるが、 及第は三人しかなかったのである。 そして若君は秋の除目《じもく》の時に侍従に任ぜられた。 雲井《くもい》の雁《かり》を忘れる時がないのであるが、 大臣が厳重に監視しているのも恨めしくて、 無理をして逢ってみようともしなかった。 手紙だけは便宜を作って送るというような 苦しい恋を二人はしているのであった。 源氏は静かな生活のできる家を、 なるべく広くおもしろく作って、 別れ別れにいる、 たとえば嵯峨の山荘の人なども いっしょに住ませたいという希望を持って、 六条の京極の辺に中宮の旧邸のあったあたり 四町四面を地域にして新邸を造営させていた。 式部卿の宮は来年が五十におなりになるのであったから、 紫夫人はその賀宴をしたいと思って 仕度《したく》をしているのを見て、 源
朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》も 静かな院の中にいて、過去を思う時々に、 源氏とした恋愛の昔が今も身にしむことに思われた。 近ごろでも源氏は好便に託して文通をしているのであった。 太后は政治に御|註文《ちゅうもん》をお持ちになる時とか、 御自身の推薦権の与えられておいでになる 限られた官爵の運用についてとかに思召しの通らない時は、 長生きをして情けない末世に苦しむというようなことを お言い出しになり、御無理も仰せられた。 年を取っておいでになるにしたがって、 強い御気質がますます強くなって 院もお困りになるふうであった。 🌕🎼 滅びの墓 written by いまたく 少納言のホームページ 源氏物語&古典 少納言の部屋🪷も ぜひご覧ください🌟https://syounagon.jimdosite.com 🪷聴く古典文学 少納言チャンネルは、聴く古典文学動画。チャンネ
夜ふけになったのであるが、 この機会に皇太后を御訪問あそばさないことも 冷淡なことであると思召《おぼしめ》して、 お帰りがけに帝はそのほうの御殿へおまわりになった。 源氏もお供をして参ったのである。 太后は非常に喜んでお迎えになった。 もう非常に老いておいでになるのを、 御覧になっても帝は御母宮をお思い出しになって、 こんな長生きをされる方もあるのにと残念に思召された。 「もう老人になってしまいまして、 私などはすべての過去を忘れてしまっておりますのに、 もったいない御訪問をいただきましたことから、 昔の御代《みよ》が忍ばれます」 と太后は泣いておいでになった。 「御両親が早くお崩《かく》れになりまして以来、 春を春でもないように寂しく見ておりましたが、 今日はじめて春を十分に享楽いたしました。 また伺いましょう」 と陛下は仰せられ、源氏も御|挨拶《あいさつ》をした。 「また別の日に伺候い
奏楽所が遠くて、 細かい楽音が聞き分けられないために、 楽器が御前へ召された。 兵部卿の宮が琵琶《びわ》、内大臣は和琴《わごん》、 十三|絃《げん》が 院の帝《みかど》の御前に差し上げられて、 琴《きん》は例のように源氏の役になった。 皆名手で、絶妙な合奏楽になった。 歌う役を勤める殿上役人が選ばれてあって、 「安名尊《あなとうと》」が最初に歌われ、 次に桜人《さくらびと》が出た。 月が朧《おぼ》ろに出て美しい夜の庭に、 中島あたりではそこかしこに 篝火《かがりび》が焚《た》かれてあった。 そうしてもう合奏が済んだ。 🌸🎼徒桜 written by のる 少納言のホームページ 源氏物語&古典 syounagon-web ぜひご覧ください🪷 https://syounagon-web-1.jimdosite.com 🪷聴く古典文学 少納言チャンネルは、聴く古典文学動画。チャンネル登録
「春鶯囀《しゅんおうてん》」が舞われている時、 昔の桜花の宴の日のことを院の帝はお思い出しになって、 「もうあんなおもしろいことは見られないと思う」 と源氏へ仰せられたが、 源氏はそのお言葉から青春時代の恋愛三昧《ざんまい》を 忍んで物哀れな気分になった。 源氏は院へ杯を参らせて歌った。 鶯《うぐひす》のさへづる春は昔にてむつれし花のかげぞ変はれる 院は、 九重を霞《かすみ》へだつる住処《すみか》にも春と告げくる鶯の声 とお答えになった。 太宰帥《だざいのそつ》の宮といわれた方は 兵部卿《ひょうぶきょう》になっておいでになるのであるが、 陛下へ杯を献じた。 いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音《ね》さへ変はらぬ この歌を奏上した宮の御様子がことにりっぱであった。 帝は杯をお取りになって、 鶯の昔を恋ひて囀《さへづ》るは木《こ》づたふ花の色やあせたる と仰せになるのが重々しく気高《けだ
元日も源氏は外出の要がなかったから 長閑《のどか》であった。 良房《よしふさ》の大臣の賜わった古例で、 七日の白馬《あおうま》が二条の院へ引かれて来た。 宮中どおりに行なわれた荘重な式であった。 二月二十幾日に朱雀《すざく》院へ行幸があった。 桜の盛りにはまだなっていなかったが、 三月は母后の御忌月《おんきづき》であったから、 この月が選ばれたのである。 早咲きの桜は咲いていて、 春のながめはもう美しかった。 お迎えになる院のほうでもいろいろの御準備があった。 行幸の供奉《ぐぶ》をする顕官も親王方も その日の服装などに苦心を払っておいでになった。 その人たちは皆青色の下に桜襲《さくらがさね》を用いた。 帝は赤色の御服であった。 お召しがあって源氏の大臣が参院した。 同じ赤色を着ているのであったから、 帝と同じものと見えて、 源氏の美貌《びぼう》が輝いた。 御宴席に出た人々の様子も態度も 非
明けて、ことしは元亨《げんこう》二年だった。 ただしく過去をかぞえれば、武家幕府の創始者、 頼朝の没後から百二十二年目にあたる初春《はる》である。 又太郎は一室で、清楚な狩衣《かりぎぬ》に着かえ、 烏帽子も新しくして、若水を汲むべく、 庭の井筒《いづつ》へ降り立っていた。 彼の伯父なる人とは、六波羅評定衆の一員、 上杉|兵庫頭《ひょうごのかみ》憲房《のりふさ》である。 ここはその邸内だったのはいうまでもない。 「アア都は早いな」 井筒のつるべへ手をかけながら、 又太郎はゆうべの酔の気《け》もない面《おもて》を、 梅の梢《こずえ》に仰向けた。 「——国元のわが家の梅は、まだ雪深い中だろうに。 ……右馬介、ここのはもうチラホラ咲いているの」 「お国元のご両親にも、今朝は旅のお子のために、 朝日へ向って、ご祈念でございましょうず」 又太郎に、返辞はなかった。 彼も若水の第一をささげて、 まず東方
🙇信連を信達と間違えておりました。申し訳ありませぬ🙇 ただちに御所内に乱入した役人は 血眼で高倉宮の姿を探しもとめたが、 もちろん、いるはずはない。 地団駄ふんだ彼らは、 隠れひそんでいた女房たちに悪態の限りをつくしたあと、 信連を縛りあげて、六波羅へ引き揚げたのであった。 報告を受けた宗盛は大床を踏み鳴らして現れると、 庭先に引き据えられた信連を見すえて、わめいた。 「おのれは、宣旨の使いと名乗る男を、 何が宣旨じゃと申して斬ったとな。 嘘とはいわせぬ。 そのうえ、検非違使庁の多くの下郎もあやめた。 断じて許さぬ。 よい、河原に引き出して、 その素っ首を打ち落してやる。 が、その前に宮の行方をかくさず申し立てい、 おのれは承知しているはずだ。 こやつをきびしく糺問《きゅうもん》してみよ」 信連は不敵な表情で坐り直すと、あざ笑った。 「近頃、御所の廻りを 妙な奴輩《やから》がうろつくの
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く