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渋江抽斎の検索結果1 - 10 件 / 10件

  • 初版道 on Twitter: "記者会見に参加した知人によると、今日の最大のサプライズは『渋江抽斎』の原稿の出現ではなく、「森林太郎って誰ですか?」と囲み取材で学芸員に質問をした新聞記者がいたことだったそうです。 https://t.co/tceDJmN9r6"

    記者会見に参加した知人によると、今日の最大のサプライズは『渋江抽斎』の原稿の出現ではなく、「森林太郎って誰ですか?」と囲み取材で学芸員に質問をした新聞記者がいたことだったそうです。 https://t.co/tceDJmN9r6

      初版道 on Twitter: "記者会見に参加した知人によると、今日の最大のサプライズは『渋江抽斎』の原稿の出現ではなく、「森林太郎って誰ですか?」と囲み取材で学芸員に質問をした新聞記者がいたことだったそうです。 https://t.co/tceDJmN9r6"
    • 森鷗外「渋江抽斎」自筆原稿の一部見つかる

      今年没後100年の文豪、森鷗外(1862~1922年)が晩年に著し、鷗外文学の最高峰ともされる史伝「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかり、収蔵した森鷗外記念館(東京都文京区)が14日発表した。記念館によれば、「渋江抽斎」の自筆原稿が見つかったのは初めて。 「渋江抽斎」は、江戸後期の弘前藩侍医・考証学者の伝記で、大正5(1916)年1~5月に大阪毎日新聞、東京日日新聞で連載された。見つかった原稿は119回の連載のうち同年3月掲載の「その四十九」「その五十」のほぼ全文。 罫線のない洋紙に鉛筆で書かれた原稿には、墨書きの字句修正や背景説明の挿入などがあり、創作の過程がわかる。新聞の活字に組む過程で「四十九」は13枚、「五十」は11枚に切り分けられ、組んだ担当者の印鑑が押されたりも。 昨年秋、所有者から記念館に連絡があり、鷗外研究家で跡見学園女子大名誉教授の山崎一穎(かずひで)氏らが鷗外の自筆と断

        森鷗外「渋江抽斎」自筆原稿の一部見つかる
      • 森鴎外の自筆原稿発見 伝記「渋江抽斎」を推敲 | 共同通信

        Published 2022/07/14 19:44 (JST) Updated 2022/07/14 19:47 (JST) 文京区立森鴎外記念館(東京)は14日、文豪森鴎外(1862~1922年)の晩年の伝記作品「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかったと発表した。鑑定した山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授(日本近代文学)は「鴎外作品の自筆原稿の発見は極めて珍しい。推敲の跡も生々しく興味深い」としている。10月22日からの特別展「鴎外遺産」で公開される。 同作は弘前藩の侍医、考証学者の伝記で、見つかったのは新聞連載(全119回)の49回と50回の原稿。冒頭に「森林太郎」と本名が書かれ、49回は鉛筆で迷いなく書かれているのに対し、50回は加筆、修正した墨の文字が多く残っていた。

          森鴎外の自筆原稿発見 伝記「渋江抽斎」を推敲 | 共同通信
        • 森鴎外「渋江抽斎」の自筆原稿発見 文豪の推敲の跡くっきり:朝日新聞デジタル

          今年で没後100年の文豪・森鷗外(1862~1922)の晩年の代表作「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかった。東京都の文京区立森鷗外記念館が14日、発表した。鷗外の小説の自筆原稿が見つかるのは珍しく、推敲(すいこう)の跡などから創作の過程がうかがえる貴重な発見だ。 「渋江抽斎」は1916年1~5月に東京日日新聞などに連載され、後に加筆、修正されて全集に収められた。江戸末期の弘前藩の侍医で考証学者の人生を克明に調べて書いた長編史伝で、鷗外文学の最高峰とも言われる。 全119回から成る全文のうち、見つかったのは「その四十九」全文と「その五十」のほぼ全文の原稿。縦約20センチの洋紙に鉛筆で書かれたもので、書き直しや推敲の跡が残され、「その五十」には新聞掲載の前に墨書で約50字に及ぶ一文を書き加えた跡があった。新聞の活字を組む過程でそれぞれ13枚、11枚に分割され、朱書きで番号が付されている。 自

            森鴎外「渋江抽斎」の自筆原稿発見 文豪の推敲の跡くっきり:朝日新聞デジタル
          • 森鷗外「渋江抽斎」の自筆原稿、発見 担当した印刷工のサインも | 毎日新聞

            「渋江抽斎」の「その四十九」、自筆原稿の冒頭部分。右下に「森林太郎」(鷗外の本名)と記されている。「その四十九」は印刷工程のために13枚に細断され、それぞれに「1」「2」……と番号がふられている=東京・千駄木の文京区立森鷗外記念館で2022年7月14日、吉井理記撮影

              森鷗外「渋江抽斎」の自筆原稿、発見 担当した印刷工のサインも | 毎日新聞
            • 【書評】大河小説のような感動を味わえる1冊―森鴎外『渋江抽斎』― - 本を開く生活

              『渋江抽斎』(森鴎外/著 中公文庫)のレビュー リンク 渋江抽斎は、江戸時代後期の人で、漢方医、儒学者として活躍した人だという。この人物の名が多少知られるようになったのは、本書と、本書を著した文豪・森鴎外の功績によるところが大きい。もし本書に触れていなかったら、渋江抽斎という人物が存在していたことさえ知らずに過ごしていただろう。 本書は、渋江抽斎についての史伝である。森鴎外の作品の中でも取り分けハードで、マニアック。何しろ、読みづらい。渋江抽斎の生涯、生活、趣味、業績などが語られるうちに、抽斎にゆかりのある周辺人物が列挙されるのだが、だれもかれもが知らない人物ばかり。専門の学者でなければ分からないような藩主、漢方医、儒学者たちの勢ぞろいである。あまりの情報量の多さに、目が回りそうになる。しかし、鴎外の筆は生き生きとしており、文の端々から、渋江抽斎に対する敬愛や、知的探求の喜びが伝わってきた

                【書評】大河小説のような感動を味わえる1冊―森鴎外『渋江抽斎』― - 本を開く生活
              • 渋江抽斎 (森 鴎外)

                本名林太郎。石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野町)生まれ。代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、鴎外もその影響から第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学。そして、両親の意に従い陸軍軍医となる。1884(明治17)年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」「大発見」「ヰタ・セクスアリス」などに、そのドイツ時代の鴎外を見て取ることができる。その後、陸軍軍医総監へと地位を上り詰めるが、創作への意欲は衰えず、「高瀬舟」「阿部一族」などの代表作を発表する。 「森鴎外」

                  渋江抽斎 (森 鴎外)
                • 『渋江抽斎』森鷗外: やまもも書斎記

                  森鷗外.『渋江抽斎』(岩波文庫).岩波書店.1940(1999.改版) https://www.iwanami.co.jp/book/b249228.html 『渋江抽斎』を読むのは、何度目になるだろうか。新潮文庫版の森鷗外を読んだ続きで、これも再読してみることにした。 この本、書誌を書いてみて、一九四〇年、昭和一五年から、岩波文庫で刊行され続けてきていることを、改めて認識した。たしかに、他の史伝類にくらべると、『渋江抽斎』は読みやすい。そして、面白い。 『渋江抽斎』の面白さは、どこにあるのだろうか。二点ほど書いてみる。 第一には、ファミリーヒストリーとしての面白さである。 森鷗外は、武鑑の収集から目にした、渋江抽斎という人物の周囲を探索していく。その家族、親戚、知人のあとを追っていく。まさに、ドキュメンタリーであり、NHKの番組でいうならば、「ファミリーヒストリー」である。その探索の緻密

                  • 森鷗外の直筆広告文見つかる 「渋江抽斎」など3作の刊行に際し | 毎日新聞

                    発見された森鷗外の書いた広告原稿(下)と、没後に追悼誌に掲載された広告=東京都文京区で2022年7月7日午後2時50分、関雄輔撮影 今年で没後100年を迎える文豪、森鷗外(1862~1922年)が伝記文学「渋江抽斎(ちゅうさい)」「伊澤蘭軒(らんけん)」「北條霞亭(かてい)」の刊行に際し、自ら執筆した広告文の直筆原稿が見つかった。原稿を保管していた春陽堂書店(東京都中央区)と鑑定に関わった跡見学園(同文京区)が7日、発表した。 3作は1916~21年、毎日新聞の前身である「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」などに連載された。 春陽堂書店は1878年創業の老舗出版社。倉庫に保管していた資料を整理する過程で、社用封筒に入った原稿が見つかった。鷗外研究の第一人者である山崎一穎(かずひで)跡見学園理事長が鑑定し、直筆と認定した。合わせて、本の収録作を検討したとみられるメモも残されていた。

                      森鷗外の直筆広告文見つかる 「渋江抽斎」など3作の刊行に際し | 毎日新聞
                    • 「渋江抽斎」協力の渋江保に新事実、郷土史家ら「注目を」:朝日新聞デジタル

                      【静岡】津軽藩医で考証学者の生涯を描いた森鷗外の代表作「渋江抽斎」。鷗外に情報を提供したのが抽斎の実子の渋江保で、浜松で教師を務めるなど県内にゆかりが深いが、新しい事実が最近見つかった。保は自由民権家でもあり、郷土史家の間では「保という人物にもっと注目すべきだ」という声が出ている。 抽斎(1805~58)は著名人ではなかったが、鷗外が歴史小説執筆のために幕府関係者の名簿である『武鑑』を集めている際、抽斎の蔵書印が多いことから関心を持った。七男の保(1857~1930)から史料の提供を受けて1916年、抽斎と親族らの軌跡を淡々と描いた史伝小説にした。小説には保も登場している。 保は英語学者や著述家・翻訳家、新聞記者、民権家として活動し、200冊余りの著作がある。江戸に生まれ、津軽を経て東京に住み、師範学校を卒業した1875年、浜松瞬養学校(浜松北高の前身)に赴任した。79年に自由民権を唱える

                        「渋江抽斎」協力の渋江保に新事実、郷土史家ら「注目を」:朝日新聞デジタル
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