超党派100人超が靖国参拝 2022年04月22日11時27分 超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)は22日、東京・九段北の靖国神社の春季例大祭に合わせ、集団参拝した。自民党、日本維新の会、立憲民主党などから103人が参加。自民党の務台俊介環境副大臣や三宅伸吾外務政務官、遠藤利明選対委員長、高木毅国対委員長らが参拝した。 政治 コメントをする
「決死隊を作りにゆくのだ」――大西瀧治郎中将のつぶやきを、副官・門司親徳主計大尉は、隣り合わせに座った乗用車の後席でじかに聞いた。フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令部から、クラークフィールド・マバラカット基地へ向かう道中、昭和19(1944)年10月19日、夕刻のことである。これが、以後、終戦まで10ヵ月にわたって続けられた特攻作戦の、事実上の始まりだった。 戦後75年の今年3月、筆者は、門司副官の長男・和彦氏らと、クラークフィールドの特攻基地跡を訪ねた。「新型コロナウィルス」COVID-19がフィリピンでも猛威を振るい始め、首都がロックダウンされたため、ごく短期間の滞在に終わったが、マバラカット、バンバン、アンヘレス……平和でのどかな風景のあちこちに戦争の爪痕を垣間見ることができた。そして、現地で出会った男性の意外な素顔とは――。 特攻の始まりを告げた静かな号砲 フィリピン・ルソン島。
安倍元首相は21日から始まった春の例大祭にあわせて、東京・九段北にある靖国神社を参拝した。 安倍元首相は参拝後、記者団に対し「祖国を思い、家族の行く末を案じながら、国を守るために散じられた英霊に対して尊崇の念を表するために参拝した。ウクライナでは祖国を守るために多くの人達が命を懸けて戦っている。そういう勇気ある尊い犠牲の上に国が守られている。そのことも念頭に置きながら静かに参拝した」と語った。 これに先立ち、自民党の高市政調会長も参拝し、「今年はウクライナ情勢を見るにつけ、日本の国民と領土と主権を守るために、苛烈な状況下で殉じられた英霊を思い、悼み、感謝の誠を捧げた」と述べた。 また岸田首相は、真榊を「内閣総理大臣・岸田文雄」の名前で奉納した。例大祭期間中の参拝は見送る見通し。 日本の将来を占う政治の動向。内政問題、外交問題などを幅広く、かつ分かりやすく伝えることをモットーとしております。
はじめて新書を書いた。 数百部を印刷し、完売すればスゴイといわれる専門書とはケタ違い(それも二桁違い)の読者を相手にすることになる。 そこで執筆のスタイルも専門書とは変えてみた。事実のみを淡々と論述し、著者の主義主張はあまり表に出さないほうが奥ゆかしいとされる(?)専門書の書き方とあえて違え、最初から最後まで著者小島毅の主義主張てんこ盛りの「檄文」調である。 檄文で何を訴えたかは木戸銭(六八〇円+税)を払ってくださらなければ教えるわけにはいかないが、ちょっとだけそのサワリをお話ししてみよう。 関東生まれの関東育ち、徳島での四年間をのぞいて箱根から西では生活したことのない人間が、ものごころついて歴史に興味を持って以来、ず〜っと疑問に感じていたことへの異議申し立てをしてみたのだ。「明治維新は日本にとって必要だったのか?」と。 「歴史にイフはない」と言われる。でも、ほんとにそうだろうか? もし本
ウクライナ政府は24日、ツイッターに投稿した動画の中で、昭和天皇の顔写真を掲載したことに日本国内のネットユーザーなどから批判が高まった事態を受け、動画から昭和天皇の顔写真を削除し、謝罪した。当初の動画には、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を行ったナチス・ドイツの独裁者ヒトラーやイタリアのファシズム指導者ムソリーニと共に、昭和天皇の顔写真を並べていた。 動画は「現代ロシアのイデオロギー」と記した英語の字幕から始まる1分21秒の映像で、プーチン露大統領の演説などが映し出され、ロシアの「差別主義」を非難している。問題の場面は1分11~14秒付近で「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と記し、昭和天皇ら3人の顔写真を並べていた。
小泉首相のおかげで、靖国神社のあり方、ひいては戦没者の追悼のあり方をめぐる議論が、これまでになく活発になっている。 ここまでの伝統的な靖国論争では、政教分離問題やA級戦犯の合祀の問題などを発火点に、最終的には先の戦争をどう捉えるかに帰結することが多い。先の戦争を不当な侵略戦争だったと捉える人は、首相の靖国参拝を戦前回帰への兆候とみて警戒し、その戦争には問題はあったとしても一定の大義もあったはずだと考える人は、靖国を大切にしなければならないと考える。だいたいそんな図式だ。 しかし、靖国問題を独自の視点から検証した『靖国問題の原点』の著者で、自身の祖父が靖国神社が一宗教法人として生き残る道を選択した時の内務大臣だったという因縁も持つ三土修平東京理科大教授は、その論理立てが的はずれであることは、GHQの占領のもとで靖国神社がなぜ今日のような法的立場に置かれるに至ったかを歴史的に検証すれば自ずとは
戦後の日本社会では、「特攻隊」は悲劇の象徴でしかなく、軍部を批判する絶好の材料となってきた。だから特攻作戦の意義や戦果を再評価し、特攻隊の顕彰を口にしようものなら、たちまち「戦争を美化している」などと、お門違いの批判を浴びるはめになる。戦後の日本は特攻隊への評価は、完全な言論統制下にあるといってよかろう。 しかし、事実として、特攻隊は大きな戦果を挙げ、米軍将兵の心胆を寒からしめていたのである。こうした史実を歪(ゆが)め、特攻隊員に対して偽善的な哀れみの情を込めて無駄死だとか犬死などというのは、英霊に対する冒瀆(ぼうとく)なのだ。 1944(昭和19)年10月25日、フィリピン・マバラカット基地から出撃した関行男大尉率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」による最初の攻撃から終戦までの約10カ月間に、海軍の特攻機2367機が敵艦隊に突入して2524人が散華した。そして、陸軍は同1129機が出撃し、13
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く