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1874年 明治の検索結果1 - 9 件 / 9件

  • 歴史的灯台「角島灯台」の素晴らしさを体験!#観光 - にゃおタビ

    山口県下関市「角島灯台」 角島灯台は、明治9年3月1日に日本海側で初めての大型灯台として点灯しました。イギリス人技師R.H.ブランtonが設計し、海抜わずか13mの低地に建設された高さ30mの塔は、荒磨きの花崗切石で装飾的に仕上げられています。灯台内部には105段の螺旋階段が設置され、細部にまで行き届いた造りとなっています。平成7年度には耐震補強工事が行われ、1874年にイギリスで設計されたフレネルレンズが現在も使用されています。灯台周辺は「角島灯台公園」として整備され、旧退息所は灯台記念館として公開されています。平成12年11月の角島大橋の開通により、陸続きとなりました。 山口県下関市「角島灯台」 登れる灯台 灯台公園の駐車場 日本の歴史的灯台のひとつ/令和2年12月23日に重要文化財に指定 角島灯台/まとめ 歴史的価値のある優雅な造形の灯台で、花崗岩の素材が活かされています。2020年

      歴史的灯台「角島灯台」の素晴らしさを体験!#観光 - にゃおタビ
    • 日本語の初出・語源、ものごとの始まりを調べる | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館

      日本語の初出・語源やものごとの始まりを調べる際に役に立つ資料やデータベースについて紹介します。 ただし何をもって「初出」「語源」「始まり」とするかは諸説あることがあります。ある文献に書かれている一つの説だけが必ずしも正しいとは限らない点に留意し、複数の文献・説を調べる必要があります。 書誌事項末尾の【 】内は当館請求記号です。 1.言葉の初出・語源を調べるここでは言葉の初出・語源を調べる際の代表的なツールについて紹介します。言葉の初出や言葉の語源は、ものごとの始まりを調べるツールからも調べることができる場合があるため、「2.ものごとの始まりを調べる」で紹介したツールも参照してください。 1-1.図書から調べる全般言葉の初出・語源を調べる際の代表的な辞典類について紹介します。 『日本国語大辞典 第2版』 全13巻・別巻(小学館 2000-2002 【KF3-G103・KF3-H1】 約500

        日本語の初出・語源、ものごとの始まりを調べる | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館
      • 白文鳥はいつ誕生したのか?|やなぎす

        はじめにブンチョウ(Padda oryzivora)は、江戸時代にオランダ船によってジャワ島から日本に渡来し、それ以来ペットとして今日まで飼育されてきた。[01] 江戸時代に飼われていた文鳥は、野生の文鳥やそれと同じ色をした文鳥(ノーマル文鳥)であったとされる。一方、明治以降に主に飼われたのは、白い差し毛の混じった桜文鳥と純白の白文鳥であり、これらが日本における文鳥の品種の主流となってきた。とくに白文鳥は、誰をも一目で惹きつける美しさのため、人気が高い。日本で多数の文鳥が飼われているのは、白文鳥の存在によるところが大きい。 白文鳥桜文鳥では、桜文鳥と白文鳥は、いつ誕生したのか? それを明らかにした研究は、これまでのところない。そこで、この記事では、史料に基づいて、桜文鳥と白文鳥の誕生が江戸時代に遡ることを示し、白文鳥が江戸時代からイギリスに輸出されていたことを示す。さらに、桜文鳥と白文鳥の

          白文鳥はいつ誕生したのか?|やなぎす
        • 134 風景から感じる色と文化|雑誌『広告』

          色で感じる文化コロナ禍で海外に行くことも、人が来ることも少なくなったが、「文化」を感じるのは、自分たちとは異なる文化を持つ共同体の地域に行ったり、人が来たりするときだろう。 1874年(明治7年)に政府の招きで来日したイギリスの化学者、ロバート・ウィリアム・アトキンソンは、『藍の説』において「日本において藍は染料となして、これを使用するのが大変多い。日本に来て全国に至るところで藍色の衣裳をみる」と記載し、「ジャパン・ブルー」と称したという(※1)。また、1890年(明治23年)に来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も、『神々の国の首都』に着物や暖簾など藍がいたるところで使用されていることを記している(※2)。日本の藍染めに用いられる蓼藍と、その染色の技術は、染色家の吉岡幸雄によると、中国や朝鮮半島から5世紀頃に輸入されたという。安土桃山時代前後には徳島県の吉野川流域で栽培され、全国に流

            134 風景から感じる色と文化|雑誌『広告』
          • 防衛省市ヶ谷台ツアー|新着ニュース|目黒区自衛隊家族会

            猛暑が続いていましたが、今日(平成30年7月26日)は少々曇り空で気温も低め。絶好のツアー日和でした。 江戸城・皇居西方の高台である市ヶ谷台は海抜31.4mで、自然の地形としては都内23区で1番の高さです。その南側には江戸・東京の防衛の要として江戸から現在まで重要な防衛施設が置かれており、「市ヶ谷台」はそれらの通称ともなっています。特に、陸軍士官学校(陸士)が市ヶ谷にあった頃には、陸士を指して「市ヶ谷台」と言い、陸士生徒(士官候補生)や陸士出身の陸軍将校の事を「市ヶ谷台上の人」とも呼称しました。 江戸時代には御三家である尾張徳川藩上屋敷があり、明治維新後もその敷地を利用して国防関係施設が建てられました。特に1874年(明治7年)から1937年(昭和12年)までは陸軍士官学校(士官学校の本科。拡充のため神奈川県座間へ移転)、同じく1941年(昭和16年)までは陸軍予科士官学校(予士。士官学校

            • 京都市上京区・西陣で150年以上続くお米屋さんの奥にある人気洋食店は自慢のご飯がおかわり無料!(loose) - エキスパート - Yahoo!ニュース

              150年前……。急に聞いてもピンときませんが、ちょうど150年前、1874年は明治7年でして、ちょいと調べてみると警視庁が設置されたり、北海道屯田兵制度が創設されたり、と完全に歴史の教科書レベルのお話になるんですが、今回のお店はそれより前、1856年(安政3年ですって)に創業されたお米屋さんの奥にある洋食店なんです。すごい歴史ですな。しかもおいしい洋食と合わせるご飯がおかわり自由! これは行かないと! と早速行ってきました。ではどうぞ。 こちらが「洋食屋キッチンパパ」さんの店構え。「OHMAI」の文字が見えますが、大米米穀店の奥にお店があるんです。地下鉄の今出川駅から西へ1.8km、徒歩25分ほどとのことで、これからの季節は散歩がてらのんびり歩くのもいいですね。そして駐車場につきましては。 契約駐車場はないのですが、店頭に周辺のコインパーキングの案内がありましたので、お車の際にはこちらを参

                京都市上京区・西陣で150年以上続くお米屋さんの奥にある人気洋食店は自慢のご飯がおかわり無料!(loose) - エキスパート - Yahoo!ニュース
              • 5分でわかる佐賀の乱!中心人物、原因、その後の影響などをわかりやすく解説

                明治維新の中心となった「薩長土肥」のひとつ肥前で、士族による「佐賀の乱」という反乱が起こりました。この記事では、中心人物である江藤新平に焦点を当てつつ、乱の原因や経緯、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。 佐賀の乱の中心人物、江藤新平はどんな人? 1874年2月に、明治政府に対して士族が起こした反乱を「佐賀の乱」といいます。別名は「佐賀の役」や「佐賀戦争」など。中心人物となったのが、「維新十傑」のひとりでもある江藤新平です。 江藤新平は、1834年生まれ。現在の佐賀県佐賀市にあたる肥前国佐賀郡出身で、佐賀藩の下級武士である江藤胤光の長男です。 1848年には藩校である弘道館に入学し、成績も優秀だったそう。しかし父親が職務怠慢を理由に解雇されてしまったため、生活は困窮を極めていました。この頃の新平の口癖は、「人智は空腹

                  5分でわかる佐賀の乱!中心人物、原因、その後の影響などをわかりやすく解説
                • 大手ビール会社との関わりを軸に日本産ホップの歴史を紐解く - 日本産ホップ推進委員会

                  日本におけるホップの歴史は、明治初期の北海道から始まっています。当時、産業の近代化を目指していた明治政府は、海外からさまざまな技術者を招聘していました。そのひとり、アイルランド出身の化学者・地質学者トーマス・アンチセルは、明治4年(1871年)、北海道の地質・植生調査のために函館から札幌までおよそ1ヵ月かけて視察を行い、その道中で野生のホップを確認し報告書に記しています。これが日本で初めてホップの存在を記録したとされる文書です。 (トーマス・アンチセルの視察についてはこちら) その後、明治7年(1874年)にルイス・ボーマーによって北海道日高地方でもホップの自生が確認されています。両名とも報告書で、北海道はホップの栽培に適した土地である、と指摘していました。これらの報告を受け、同年、ホーレス・ケプロンは当時の開拓使長官である黒田清隆にホップの栽培を進言し、開拓使の事業として取り組むこととな

                    大手ビール会社との関わりを軸に日本産ホップの歴史を紐解く - 日本産ホップ推進委員会
                  • 宮崎八郎 - Wikipedia

                    宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年(嘉永4年)- 1877年(明治10年)4月6日)は、肥後国出身の自由民権運動家。中江兆民との親交を重ね[1]、「九州のルソー」と呼ばれた[2]。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。 肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市)の郷士・宮崎政賢(宮崎長兵衛/長蔵)・佐喜夫妻の次男として生まれる。弟に宮崎民蔵、宮崎彌蔵、宮崎滔天がいた。父には山東家伝二天一流を弟たちとともに習っている。1864年(元治元年)元服し長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。 ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)4月26日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立したが10月末で閉校する[1]。東京の評

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