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StStに関するエントリは4件あります。 歴史history音楽 などが関連タグです。 人気エントリには 『”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献|STST』などがあります。
  • ”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献|STST

    ”アフリカンサムライ”弥助に関する真偽定かではない数々の伝説の誕生と拡散には、2019年発行のトーマスロックリー氏らによる小説「African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan」の影響が大きいと言われています。 一方で過去の英語版Wikipediaの内容を辿ると、小説「African Samurai」発行前からオリジナルエピソードが「信長公記」や「家忠日記」に追加され、”アフリカンサムライ”伝説の誕生と拡散に影響を与えていることが窺われます。 この伝説の誕生と拡散に影響を与えたと思われるタイトル画像のとあるユーザー氏のWikipediaへの貢献についてまとめてみます。(画像はWikipedia上のとあるユーザー氏のユーザー頁のスクリーンショットからユーザ名を隠したものです

      ”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献|STST
    • 記録文書で見る”黒人侍”弥助|STST

      最近話題の”黒人侍”弥助に関して、少なくとも原文は同時代に描かれた記録に残っている内容と、最近誰かの想像したフィクションとが混ざって語られていることが多い為、「記録」に関して備忘録としてまとめます。 (2024/7/2 家忠日記の原本に関する説明追加) 弥助に関する記録の比較弥助に関する記録一覧弥助に関する記録一覧上記表のとおり、弥助に関する記録が残っているのは「信長公記」「家忠日記」それぞれ1か所ずつと、イエズス会宣教師による記録3か所の計5か所のみです。 内容は信長と弥助の初対面の際の記録、信長の甲州征伐からの帰路における記録、本能寺の変の際の記録の3通りのみとなります。 逆に言えば、これらのタイミング以外の記録はありませんので、安土での弥助の生活や弥助が甲州征伐や伊賀攻めで戦ったといった物語、信長の元で功を上げて出世したといった物語を時折見かけますが、これらは特に記録には基づかない作

        記録文書で見る”黒人侍”弥助|STST
      • METAFIVEからTESTSETへ――砂原良徳とLEO今井が語る『1STST』という新天地 | Mikiki by TOWER RECORDS

        METAFIVEから新天地へ向かうTESTSETという名の電車 砂原良徳、LEO今井が語る1st『1STST』 正式な結成は2022年だが、TESTSETにはプロトタイプが存在する。いうまでもなく前年のフジロックフェスティバル出演時のことで、彼らはまだMETAFIVEと名乗っていた――。高橋幸宏、小山田圭吾、砂原良徳、テイ・トウワ、ゴンドウトモヒコ、LEO今井からなるMETAFIVEの活動は2021年夏、中心となる高橋幸宏の病気療養で暗雲がたれこめ、東京五輪に端を発する小山田圭吾のいじめ問題の再燃で暗礁にのりあげつつあった。そこにコロナ禍が追い打ちをかける。2021年7月にリリースを予定していた2作目『METAATEM』は発売を中止(のちに同年11月の無観客ライヴの特典として発表)し、同月末の自主企画ライヴは中止となった。出演が決まっていたフジロックは特別編成で臨むとの周知もあり、META

          METAFIVEからTESTSETへ――砂原良徳とLEO今井が語る『1STST』という新天地 | Mikiki by TOWER RECORDS
        • ”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②|STST

          せっかく調べたので弥助関連備忘録、本能寺の変周辺。これまでの内容は以下。 (2024/6/23 資料のキャプチャ追加と誤字修正) 弥助、本能寺の変にて戦う宣教師ルイスフロイスによる記録本能寺の変による信長の死という大事件に際し、宣教師ルイスフロイスは通常の年次報告とは別に追加の報告を母国に送っています。その中に数少ない弥助に関する記録の一つがあり、内容は以下の通りです。 又ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相當長い間戦つてゐた處、明智の家臣が彼に近づいて、恐るゝことなく其刀を差出せと言ったので之を渡した。家臣は此黒奴を如何に處分すべきか明智に尋ねた處、黒奴は動物で何も知らず、又日本人でない故之を殺さず、印度のパードレの聖堂に置けと言つた。之に依つて我等は少しく安心した。 村上直次郎「耶蘇会の日本年報」一五八二年十一月五日 ルイスフロイスの報告信長の死後、世子(信忠

            ”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②|STST
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