タグ

ブックマーク / blog.goo.ne.jp/hirochan1990 (57)

  • エリック・サティ「ヴェクサシオン」日本初演(1968年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    (2015年4月23日の記事に情報を追加しました) エリック・サティのピアノ曲「ヴェクサシオン」は下の楽譜を840回繰り返し演奏するというもの。 ↑ まず、一番下の段のバス・テーマを弾き、次にこのテーマ上に2声部重ねて計3声にしたものを弾く。次に、もう一度テーマだけを弾く。そしてさらに、先の3声の形の最上声を1オクターブ下げたものを弾く。以上をワンセットとして840セット繰り返す。 それを1967年12月31日午前11時15分から1968年1月1日午前2時38分まで、実に15時間23分かけて日で初演した人たちがいました。(アメリカ文化センター) それは下記の11人の方々です。 黛敏郎(1929-1997) 笠間春子 ロジャー・レイノルズ(Roger Reynolds, 1934年生まれ) カレン・レイノルズ(Karen Reynolds) 湯浅譲二(1929年生まれ) 松平頼暁(1931

    エリック・サティ「ヴェクサシオン」日本初演(1968年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2023/03/28
    "NMLで24時間ノンストップで聴けます" NML=ナクソス
  • 来日した有名なクラシックの作曲家 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    に来たことがある作曲家って親しみが湧きますよね。ネットにはあんまりまとまった情報がないようなので初来日順に並べてみました。(広義のクラシック。修正、追加していきます) セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) 1918年 予定外にたまたま来日したが帝国劇場でリサイタル エンゲルベルト・フンパーディンク(1854-1921) 歌手のほうじゃない、『ヘンゼルとグレーテル』のフンパーディンクです。調査中。 フリッツ・クライスラー(1875-1962) 1923年4月初旬 帝国劇場などでリサイタル イジドール・アクロン(1892-1948) 1923年と1931年 ハイフェッツのピアノ伴奏者として来日。 ヘンリー・ハドリー(1871-1937) 1930年 新交響楽団を指揮 アレクサンドル・タンスマン(1897–1986) 1933年 アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)

    来日した有名なクラシックの作曲家 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • 練習中の声楽家・田中路子(1954年)+オーストリア映画出演(1935年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    【2016年4月22日の記事に田中路子さんの映画出演と引退公演の画像を追加しました】 アサヒカメラ1954年9月号から、神田生まれでヨーロッパで長く過ごした高名な声楽家・田中路子さん(1909-1988)の写真です。 この画像は、アサヒカメラの月例入選写真として紹介されており、三等賞になっています。 一等にも二等にも選ばれなかった理由は「力弱いのは、ピアニストの顔を出してしまったこと」であり、「田中路子の左腕のヒジのところから右を切り捨て、楽譜の左下の端から下部を切り落したら、グッと緊張した作品」になったという評が添えられています。 1枚の写真の構図としてはそうなのかもしれないけど、この外人ピアニストが誰なのか、もしかしたらダンナなのか?等の謎を残してくれた撮影者の名古屋の「内海薫」さんには感謝。 田中路子さんの練習現場にズカズカ踏み込むことのできたアマチュア写真家の内海さんってそもそも如

    練習中の声楽家・田中路子(1954年)+オーストリア映画出演(1935年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2022/08/21
    “アサヒグラフ1935年12月11月号より、田中路子さんが出演したオーストリア映画『恋は終わりぬ』(原題 'Letzte Liebe')の写真です。”https://tinyurl.com/2dtqslst https://tinyurl.com/2ehb54o3 https://tinyurl.com/2lssqvrd
  • 服部正指揮・三越管弦楽団(1955年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    東京・日橋の三越店ロビーにおける三越管弦楽団の「初春大音楽会」の画像です。 (小原敬司氏撮影・音楽評論社『音楽』昭和40年11月号より) 1955年1月。指揮は作曲家・服部正(1908-2008)。総勢約50名の楽団の配置はかなり無理してますね~! このオーケストラは「三越少年音楽隊」の流れかと思ったのですが、三枝まり氏『日の交響楽運動の黎明期―三越少年音楽隊を中心として―』によると、「三越少年音楽隊は明治42年に成立し、大正14年に解散するまで、民間の交響楽団として活動し、その後の音楽界の重鎮となる人材を次々と育てた。」とあり、とっくの昔に解散していたようなので直接の関係はないようです。 【現場検証】2015年9月 ↑ ヘタクソな写真ですみません。結構狭かったです 【参考】昭和10年10月1日増築全館落成ポスター (2015年6月20日の記事を直しました)

    服部正指揮・三越管弦楽団(1955年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • 1954~55年の日本の第一線バレリーナたち - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    (2016年5月5日の記事に画像を追加しました。) アサヒグラフ別冊『映画と演芸』1954年3月号および『主婦の友』1955年3月号において第一線バレリーナとして紹介された方々です。(アイウエオ順) アベチエ (石井郁子の娘) 梅村レイ子 貝谷八百子 佐多達枝(小説家・佐多稲子の娘さん) ↑ 右より佐多達枝、松岡みどり、須郷文子、西田奈都子、西田三重子。服部・島田バレエ団を脱退したメンバーを中心として結成された青年バレエ・グループ「群舞(ぐんぶ)」。自分は佐多先生から直接「このときは寒かった」との証言を得ました。ちょっと自慢。 橘秋子(牧阿佐美さんのお母様) 太刀川瑠璃子(小牧正英の奥様) 谷桃子(小牧正英と一時結婚していた) (羽田敏雄氏撮影。1952年アサヒカメラ年鑑より) 服部智恵子 日高惇 (小牧バレエを脱退、東京バレエ協会に参加) 広瀬佐紀子 (俳優・広瀬恒美の娘。小牧バレエを脱

    1954~55年の日本の第一線バレリーナたち - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • 秋葉原の石丸電気は「日の丸電気」だった! - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    【2014年4月21日の記事に画像を追加しました】 音楽CDは最近は一年に2枚か3枚買えば多いほうですが、ちょっと前までは秋葉原の石丸電気で輸入盤を物色したりしていました。残念ながらもう石丸電気ってないんですよね?さみしい~。いろいろ質問するわりには途中でおなかいっぱいになっちゃって結局CD買ってかない生意気なクソガキにイヤな顔ひとつせずやさしく教えてくれたクラシック売り場の店員のかたがた、当にありがとうございました!お元気ですか~?売り場の漢方薬っぽい匂いが好きでした。 ところで物置の古い雑誌の落丁ページ(おそらく1960年代後半のもの)に「日の丸電気」の字がありました。地図から石丸電気のあった場所に間違いないですよね? なぜ名前を変えたんでしょうか。「丸」だけ残して。日の丸電気のほうがインパクトあんのに!? もしかして石丸が買収した?他の会社とカブった?または「日の丸」けしからん系の

    秋葉原の石丸電気は「日の丸電気」だった! - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • ブルックナー交響曲第3番~ブルックナーとワーグナーのサイン入り手紙 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    はじめまして・・・ (わくわくかあさん) 2021-11-22 22:46:49 こんばんは~ 何気にチュエボーのファンですが・・・ ブルックナーと聞いて朝比隆さんを思い出しました。 一番最初に大阪の藤井寺球場で聴いたオーケストラ、たしか小学生3,4年・・・今から60年以上も前のことです。 その時のことなにも覚えていないのに、なぜか朝比奈隆という名前だけは憶えています。 それがきっかけかどうか分かりませんがクラシックファンです。 コロナでコンサートが次々に中止となり、田舎で生の演奏を聴くことが難しくなっています。 1日も早くコンサートが再開されること祈るばかりです。 わくわくかあさんさまへ (チュエボー) 2021-11-24 18:30:59 わくわくかあさん、コメントありがとうございます! > 何気にチュエボーのファンですが・・・ なんと!うれしいです。自分にもファンがいたとは。。 ず

    ブルックナー交響曲第3番~ブルックナーとワーグナーのサイン入り手紙 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/11/22
    “この紙は「ホテルに備付けられた便箋」ということですが、左上の文字を見ると"Hotel Goldener Anker Bayreuth"のようです。現存するんですね。”マーラー3番「ワーグナー」
  • 音楽霊媒師、ローズマリー・ブラウンの奇跡!? - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    さっきNHKで放映された、立花隆さんの臨死体験の番組を見て思い出しました。ローズマリー・ブラウン(Rosemary Brown, 1916-2001)というイギリスの「音楽霊媒師」が1970年に発売したレコードはかなりの話題になったそうなんです。 A Musical Seance 「音楽の降霊術会」ちゃんとフィリップスから出ています。YouTubeで全部聴けます。 なんと、有名な作曲家の霊が次から次へとブラウンさんに乗り移り、ピアノのレッスンをしてくれたらしいんです。 A面にはイギリスのプロのピアニスト、ピーター・ケイティン(Peter Roy Katin, 1930-2015)が演奏する大作曲家の作品、B面にはピアノはド素人だったけど霊たちのレッスンによってメキメキ上達したブラウンさんの演奏が入っており、両者を比較してもらおうという趣向らしいです。(イマイチ意味がわかりませんけど。。霊た

    音楽霊媒師、ローズマリー・ブラウンの奇跡!? - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/10/31
    既存の作品の再構成だろうねhttps://tinyurl.com/ybjmufsa
  • 古いオーディオの広告2つ - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    古い雑誌からオーディオの広告2つです。 まずは1929(昭和4)年のアサヒグラフからコロムビア蓄音機No. 114です。価格100円。 きれいなかたですね。有名な女優さんか何かでしょうか。 次に、ちょうど30年後、『週刊公論』1959(昭和34)年新年特大号。 表紙がそのままナショナルのステレオの広告になっています。 ↑ 名女優・高峰秀子(1924-2010)。『二十四の瞳』の頃ですね。草月会館にて。犬がちょろちょろ動いたりして撮影には3時間半もかかったそうです。撮影は中村正也氏(なかむら まさや、1926-2001)。 ファッションデザイナー中林洋子さん(なかばやし なみこ、1920‐2001)。上のステレオ(HE-1000)、当時80万円もしたんですね。1959年の消費者物価指数(17.2)で割り返すと2020年で460万円! 。。。気に入ったステレオの広告があればここに追加します。

    古いオーディオの広告2つ - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • オリヴィエ・メシアン初来日、『日本に演奏して』(1962年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    オリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)は1962年6月20日、イヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod, 1924-2010)と共に初来日し、主に「トゥーランガリラ交響曲」の上演、監修のために一ヶ月程滞在しました。 → 二度目の来日(1978年) 『藝術新潮』1962年9月号にメシアン自身による『日に演奏して』という記事が掲載されています。 --------------------------------- 日に演奏して オリヴィエ・メシアン パリの東北端の高台、氷雨や雪の日には出入りにも困難だと嘆かれるヴィラ・デュ・ダニューブという村落めいた地区に長年住みつき、どんなにその非現代性、不便さを説かれても転居する気にならない私だが、その我が家の門口に「スランガ」と呼ばれる木が一ある。毎年六月のはじめになると純白の小さい花をいっぱいに咲かせ、

    オリヴィエ・メシアン初来日、『日本に演奏して』(1962年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/05/13
    日本に来てまで小鳥の採譜
  • 昭和のピアニスト・属澄江(さっかすみえ)とザウアー - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    ピアニストの属澄江(さっか すみえ、1910-2001)さんです。 この方は音楽評論家の属啓成(さっか けいせい、1902-1994)氏とご結婚されました。 ちなみに「属澄江」で画像検索するとサボテンの写真がたくさんヒットします。「エケベリア属 澄江」というのがあるらしいです! 昭和16年(1941年)5月5日日比谷公会堂においてリサイタルが開かれています。(『レコード音楽』1941年4月号より) 午後7時30分って、結構遅いスタートですね。 曲目はモーツァルト、ベートーヴェン(31番!)、シューマン、ショパンとナイスなバランスだと思います。 アンコール曲「音楽時計」(印刷されちゃってるけど?)の作曲者「ザウアー」というのはエミール・フォン・ザウアー(Emil von Sauer, 1862-1942)のことで、ネット情報によると澄江さんがウィーンに留学したときの先生だということです。 ザ

    昭和のピアニスト・属澄江(さっかすみえ)とザウアー - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/05/06
    老いたリストの写真が
  • ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番冒頭のベートーヴェン引用 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    【8年前の記事を修正しました】 ベートーヴェンの幻想曲ト短調 Op.77の冒頭聴いたらビビったわ。 ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番冒頭のパクリじゃん(逆) ショスタコ作品はこの曲に限らず引用の嵐だそうですけど、ここではアタマからやってるわけですね。 ↑ ベートーヴェン ↑ ショスタコーヴィチ

    ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番冒頭のベートーヴェン引用 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • ベートーヴェンの最後の言葉とショット社から届けられたラインワイン - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    音楽現代」(1975年5月号)にまた面白い記事(故・武川寛海氏による)がありました。 ベートーヴェンの当の最後の言葉は、実は、有名な「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」(Plaudite, amici, comoedia finita est)ではなかった!? そもそも、その言葉をなぜドイツ語でなく、ラテン語で言ったのか? それは、元ネタがラテン語だからである。 元になったのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスのよく知られた言葉、「喝采せよ、劇は終わった」(Plaudite, acta est fabula )。 ベートーヴェンが「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」と言ったのは1827年3月23日である(息を引き取るのは26日)。 このとき、ベートーヴェンは「医者たちは手を尽くしたが駄目であった。何の役にも立たなかった」という気持ちでいわばダジャレを一発かましたのである。彼はダジ

    ベートーヴェンの最後の言葉とショット社から届けられたラインワイン - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/02/18
    “ベートーヴェンの本当の最後の言葉は、実は、有名な「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」(Plaudite, amici, comoedia finita est)ではなかった!?”
  • トスカニーニの指揮で第九を歌った日本人合唱団員(1939年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    山野楽器店の音楽雑誌『月間楽譜』昭和15年(1940年)7月号です。 この号にトスカニーニの指揮で合唱団員として第九を歌った日人女性の手記が載っています。 松岡宏子さん ------------------------- トスカニーニの指揮で歌ふ 松岡宏子 ある晴れた朝でした。 合唱の何時ものような練習時間に、私達は「トスカニーニが学校を訪問される」という一大事件を耳にして、学校はひっくり返るような騒ぎになりました。 「私達の合唱を試験しにいらっしゃるんですよ、良ければカーネギーホールでベートーヴェンの第九を歌えるんですから皆さんしっかり歌ってください」との校長の話!!喜びと驚きとで生徒達の緊張ぶりと意気込みとは大したものでした。すぐに我々のバッハのロ短調ミサの練習が始まったのです。 ゆっくりと落ち付いてトスカニーニはやってきました。マネージャーらしい人と二人で。そして我々の合唱をじっと

    トスカニーニの指揮で第九を歌った日本人合唱団員(1939年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/01/30
    “編集後記によると、このカーネギーホールでの第九コンサートは1939年の年末に開かれ、松岡宏子さんは翌年5月に日本に帰って来られたそうです。”
  • マーラーの兄弟姉妹とオットー・マーラーの交響曲 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    グスタフ・マーラーの兄弟です。 1.イージドール(Isidor, 1858-1859)☆ 2.グスタフ(Gustav, 1860-1911) 3.エルンスト(Ernst, 1862-1875) 4.レオポルディーネ(Leopoldine, 1863-1889) 5.カール(Karl, 1864-1865)☆ 6.ルードルフ(Rudolf, 1865-1866)☆ 7.アーロイス(Alois, 1867-1931) 8.ユスティーネ(Justine, 1868-1938) 9.アルノルト(Arnold, 1869-1871)☆ 10.フリードリヒ(Friedrich, 1871年4月~12月)☆ 11.アルフレート(Alfred, 1872-1873)☆ 12.オットー(Otto, 1873-1895) 13.エマ(Emma, 1875-1933) 14.コンラート(Konrad, 1879

    マーラーの兄弟姉妹とオットー・マーラーの交響曲 - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2021/01/10
    “ネットではこれらオットー作品の録音は見つからず、楽譜もIMSLPに載っていませんでしたが、何しろ大マーラーの弟の作品、一度は聴いてみたい”
  • 東京・銀座 旧ヤマハホール誕生(1953年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    『藝術新潮』1953年5月号より、東京・銀座ヤマハホールの誕生についてです。新ヤマハビルの建築に伴い取り壊され、現存しません。ピアノ発表会等で舞台に上がった方も多いのでは? ↑ ホール天井と左側面 ↑ 巌真理、河野俊達、齋藤秀雄(!) ↑ 二階側面にある放送室。素朴~ ↑ ホール左側面 ↑ 二階ロビー ↑ ステージは決して広くはありませんね。 ↑ 二階正面 お客さん、ぎっしり。 ↑ 井口基成夫の演奏。 以下、文から抜粋します。 「街なかの音楽堂」 街の美術館としてブリヂストンや近代美術館がさきに生れて好評だが、今度は、街なかの音楽ホールが誕生した。銀座七丁目の日楽器の山葉ホールがそれである。これでかねてから云われていた音楽家の会場難は、さきに返された第一生命ホールとともに、いくらか緩和されるはずだが、使用料が収容人員(524名)に比してお安くはない(※1)のが欠点だという人もいる。

    東京・銀座 旧ヤマハホール誕生(1953年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2020/12/19
    今はこうなっているとhttps://tinyurl.com/y6uycdec
  • ヒンデミット来日、初来日のウィーン・フィルと共に(1956) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith, 1895-1963)が1956年(昭和31年)4月6日深夜(7日午前1時05分)に羽田空港に到着しました。 (↑帝国ホテルにて。「音楽芸術」昭和31年5月号より) この時、ウィーン・フィルも記念すべき初来日で、楽員51人という「ハーフ・サイズ」でしたが、4月27日までヒンデミットの指揮のもと日全国で演奏したようです。ヒンデミットはなんと、17回の演奏会を指揮!そして4月28日に羽田から日をたちました。(お疲れさまでしたと言いたい。) ↓日比谷公会堂にて。コンサート・マスターはボスコフスキー(Willi Boskovsky, 1909-1991) ↓芸大講堂での講演会(4月27日午前10時より)。各音楽学校生ら約500人が集まり、ユーモアを交えた和やかな講義だったそうです。 講演会の内容は ・賞金制度や商業主義が若い作曲家を如何に害す

    ヒンデミット来日、初来日のウィーン・フィルと共に(1956) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2020/12/01
    “新橋駅付近の「松喜」というスキヤキ屋で撮影されたものです”https://is.gd/8jVWkl
  • 神田・神保町古本屋街のストラヴィンスキー(1959) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    また「音楽芸術」昭和34年7月号からドナルド・リチーによる記事です。 1959年に来日したストラヴィンスキーは、リチーと共に歌舞伎(勧進帳)を見物したり、東京のフランク・コーン夫(有名な人なんでしょうか?)の賓客として下落合のコーン邸を訪れたり、さまざまなレストランに招かれたりしたそうです。 その日は、リチーはストラヴィンスキー夫を神田・神保町の古屋街と湯島聖堂に案内しました。 (↑ 苦学生が多く、「ビンボウ町」と言われた頃の神保町の古屋街。「東京下町の昭和史」毎日新聞社より) 「ストラヴィンスキー夫は、書物と版画を探すために買い物に行きたがった。それでぼくは二人を神田に案内した。 神田で、ストラヴィンスキーは、たまたま自著「音楽の詩学」(Poétique musicale)の日語訳を見つけた。『あっ―あっ』と彼は、に近づこうとして跳び上がりながら、逆上したような面持ちで、ぼ

    神田・神保町古本屋街のストラヴィンスキー(1959) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2020/12/01
    ストラヴィンスキーはお金がなかったのよ・・・。革命の影響で著作権料が入らなくて生活に困った時期が長かったから。
  • ドヴォルザークが来日していた!?(冨田覚氏『音楽の世界』1987年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    音楽舞踊会議の月刊誌『音楽の世界』1987年4月号から7月号までの4回にわたって、当時・日楽友協会常任理事の冨田覚(さとる)氏による『ドヴォルザークは来日したのだろうか......』というエッセイが掲載されています。 ↑ 冨田覚氏 「エッセイ」だということで、著者の妄想の中でドヴォルザークが来日して日酒飲んで酔っぱらって「家路」をカラオケで歌った。。。みたいなバカげた作り話だと想像してたらノンフィクションだったのでドキドキしながら一気に読んでしまいました。 事実の指摘の部分だけ箇条書きでまとめてしまうと。。 ◆冨田氏は1974年8月25日の午後1時半頃、栃木県日光市にあるK古美術店にて、同店所有保管のサイン帳に「ドヴォルザーク」というサインがあることを初めて知った。そのサイン帳は分厚いもので数冊あり、その中の一冊、1800年代後半から1900年代初期のものと思われるものの中にそれは

    ドヴォルザークが来日していた!?(冨田覚氏『音楽の世界』1987年) - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
  • シューベルトは本当にベートーヴェンに会ったのか? - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

    シューベルトは1827年、ベートーヴェンの死の床にお見舞いに行ったって話は結構有名ですよね。 学習漫画・世界の伝記ベートーベン(集英社1984)より。 ベートーベンもシューベルトが来てくれて心なしかうれしそうですね。 でもこれ、うそつきシンドラー(Anton Schindler, 1795-1860)の作り話である可能性が高いそうです。なんつーこった。 他に、シューベルトが自作の楽譜をベートーヴェン宅に持って行ったがいなかったという説、いたけど和声法上の間違いを指摘されてヘロヘロになった説などがあるそうですが真相やいかに?調査します。

    シューベルトは本当にベートーヴェンに会ったのか? - チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ
    quick_past
    quick_past 2020/11/30
    またシンドラーか