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ブックマーク / manba.co.jp (11)

  • いま縦スクロールマンガを読むことは時代の生き証人になることだ | マンバ通信

    いやしかし、いま、このタイミングで縦スクロールのマンガを読まないのは、この時代に生きている意味がないんじゃないかくらいの機会損失だと思うんですよ。歴史が生まれる瞬間を見逃しちゃうの? くらいのことだと思うんです。いま目の前で歴史が作られている! のでは?? ということであります。 手塚治虫が、マンガ文法を発明しながらマンガを描いていたようなことが、いま縦スクロールのマンガでは起こっているかもしれない、と。表現手法の発明ラッシュが起こっているんじゃないのかと。

    いま縦スクロールマンガを読むことは時代の生き証人になることだ | マンバ通信
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    rafbm 2019/04/06
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信

    原作とアニメーションの相違の中でも、もっとも気になる箇所の一つが「水鳥の青葉」の中でのすずの台詞だ。原作ですずがリヤカーを押しながら刈谷さんに語りかけることばは次のようなものだ。 生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居ってものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね (下線は筆者) 原作では、この「記憶の器」ということばが大きな鍵となっている。それが何を意味するかを考えるために、花見の頃、リンが桜の樹の上ですずに言った次のことばを思い出してみよう。 ねえすずさん 人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる それはそれでゼイタクなことかもしれんよ 自分専用のお茶碗と同じくらいにね (下線は筆者) リンのことばは、記憶=秘密の器としての人の生のことを語ろうとしている。リンにとって、「記憶」と「秘密」とが結び

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信

    「この世界の片隅に」でわたしたちがまず引き込まれるのは、幼いすずが船を下り、風呂敷を背負い直す場面だろう。わたしは原作を読んだときにまずこの小さな所作を描いた3コマに引き込まれたのを覚えている。 【図1】 1コマ目、すずは力まかせによっこらせと背負うのではなく、固い壁に風呂敷を壁に押し当てるという謎めいた所作をする。しかし2コマ目で、その所作にはちゃんと訳があって、風呂敷をちょうど肩に来るような高さに押し当てていたのだと分かる。なぜならそのコマでは、すずが自分の背中と壁とで風呂敷を落ちないようにはさんでおり、風呂敷の布の余った部分がちゃんと首の前に来て、すずはちょっとだけ壁に体重を乗せて(このコマの、足の位置の描き方が実に巧みで、胴体がわずかに壁側に押しつけられている感じが出ている)、落ち着いて風呂敷を結わえている。3コマ目で歩き出したすずの左足の下駄の裏は、この小さな一仕事を終えたあとの

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信
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    rafbm 2017/05/16
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信

    作品の細部にまでこだわって描写する監督・片渕須直。作品の細部を読み解こうとする研究者・細馬宏通。「この世界の片隅に」をめぐって、この二人のトークセッションが行なわれた。聞き手も受け手も、ものすごく細かいところについて語っていて、思わず「こまけー!」と声が出そうになるのだが、しかし読めば読むほど、原作も映画当に丁寧に作られた作品であることがしっかりと伝わってくるトークになっている。観客は原作と映画はすでに見ているという前提でのトークなので、未見の方はまず作品を味わってから読まれることをおすすめします。 (2017年1月28日、京都・立誠シネマで行なわれたトークセッションを再構成したものです) 「はだしのゲン」を2巻から読んだこうの史代 細馬 あの映画を拝見して、まず「監督はすごくマンガを読み込む人だな」と感じたんですね。それも単なるマンガ好きでパッパパッパ読んでるということじゃなくて、細

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信
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    rafbm 2017/02/28
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(15)かまど | マンバ通信

    事の支度をするさまがあまりに楽しそうなので、つい気づきそこねてしまうが、かまどの前のすずはずいぶん長いこと一人で過ごしている。 たとえば、楠公飯の場面がそうだ。「三倍の水にて弱火でじつくり炊き上ぐるべし」と、作り方がこともなげに語られるが、これはつまり、三倍の水がなくなるまで「じっくり」かまどの弱火を維持せよという意味であり、もちろん、現在のコンロのように放っておけば一定の火加減になるわけではないから、薪を足し、あるいは灰を掻きだし、弱いながらも消えぬよう、火の勢いを保ち続けなければならない。「弱火」は、人をかまどの前にしばりつける。その時間を表すかのように、マンガ版では、楠公が昼寝を決め込んでいる横で、すずがかまどの前で呆然と座っている。 楠公飯の場合は極端だとしても、火をおこし、絶やさぬようにするには、かまどの前で長いこと過ごさねばならない。すずは小さな椅子に座っていることもあるけれ

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(15)かまど | マンバ通信
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    rafbm 2017/02/16
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(12)右手が知っていること | マンバ通信

    アニメーションには、原作のマンガにはない小さなエピソードがいくつか散りばめられているが、中でも印象に残るのは、晴美とすずのやりとりだ。 たとえば、19年9月、まだまだ暑い畑で、すずと晴美が何かを収穫しており、晴美は黄色い花を手にしている。次のカットでは、カボチャに墨で顔を描いたものが棚の前に置かれており、そばに添えられた黄色い花が色鮮やかなので、短いカットながら印象に残る。おそらく顔を描いたのはすず、花を持ってきたのは晴美で、この髪に花をかざしたような剽軽なカボチャは、二人の合作なのだろう。 もう一つは20年3月19日、空襲後の短いエピソード。呉港への爆撃で海には魚がたくさん浮いている。「その日、呉では魚がようけ獲れた」。すずと晴美は向かい合って皿に置かれた配給の小魚を絵に描いている。晴美が言う。「ちっさ!」。その短い形容の仕方は、かつてすずが友達に言われていた「短かー」や従姉妹に言われ

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    rafbm 2017/01/12
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(8)虫たちの営み | マンバ通信

    さて、正月早々、これはトリならぬ虫の話。 「戦争しよってもセミは鳴く。ちょうちょも飛ぶ。」 そう物語った19年夏のある日、すずは晴美がしゃがんで「ありこさん」を見ているのに気づく。二人はアリの行列をたどってゆくのだが、そのアニメーションの描写に、わたしは思わず笑ってしまった。アリの行きと帰りが描かれていたからだ。 (図1 『この世界の片隅に』中巻 p. 12) 原作のマンガでは、アリの行列は一列に描かれている。アリをマンガ的に描くときのお約束だ。しかし、アニメーションではアリは二列になっており、しかも片方は逆向きに動いている。さらにその片方をよく見ると、それぞれの小さなからだが何ものかを運んでいる。晴美とすずは、マンガでは一列のアリの向かう先をたどるのに対し、アニメーションではアリの行き帰り、すなわち収穫の営みをたどる。この間鳴っているコトリンゴの音楽は、ピアノ、木琴、弦のピチカートによっ

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    rafbm 2017/01/05
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器 | マンバ通信

    アニメーション版『この世界の片隅に』を見ていると、マンガにそんなことが描かれていたのかと虚を突かれることがある。たとえば画帳だ。 19年5月、径子たちが街に戻って再び事の支度をすることになったすずは、刈谷さんから教えてもらった料理を試みるのだが、なぜか広島に帰ったときに描いた街のスケッチを広げており、めくると、続くページに調理法を描いた絵が現れる。この画帳は、すずが実家に帰ったとき父親にもらったおこずかいで買ったものだ。物資不足の時代だから、いくつものノートを使い分けるゼイタクはできなかったのかもしれない。それでも、街の景色も料理の方法も一つの画帳に収まっているのを見ると、すずの絵心の分け隔てなさが表れているようで温かい気持ちになる。すずにかかると、「かく」ことのもとですべてがそれぞれの価値を持っているかのようだ。 おそらくすずは事あるごとに、こんな風に身の周りのできごとを画帳にしたため

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    rafbm 2017/01/01
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(5)三つの顔 | マンバ通信

    マンガ版「この世界の片隅に」の第15回、19年9月のこと。周作はうっかり家にノートを忘れ、すずが届けに行こうとする。普段着のまま出ようとするのを見咎めた径子にうるさく言われて、すずは着替えて白粉もはたき、すまし顔で出かける。着替えた服は、やはり径子にうるさく言われて着物から仕立て直した笹模様のもんぺなのだが、これは周作にというよりは径子に気を遣ってのことかもしれない(以来、すずのお出かけの服はきまってこの笹模様だ)。 鎮守府に来たすずはおすましした標準語の口調で「帳面をお届けに上がりました」と一礼して周作にノートを差し出す。出迎えた周作は「えっ」と驚いてからようやく「ああすずさんか」と気づく。 このやりとりを描いた一コマは、読者にちょっと謎をかけている。周作は、一瞬相手がすずであることがわからなかったらしい。では、なぜわからなかったのか。家では見せないかしこまった振る舞いゆえか、それともお

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    rafbm 2016/12/22
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(3)流れる雲、流れる私 | マンバ通信

    マンガのことばはテキストで、アニメーションは声。 そう書くと、いや、マンガのセリフだって話し言葉ではないか、という反論がくるかもしれない。しかし、たとえ話し言葉であってもそれはテキストである。その多くは抑揚や強弱や速度、あるいは表情を欠いている。もちろん、?や!、あるいは太文字や書き文字による装飾によって多少の表情をつけることはできるし、そうした装飾付きのテキストから頭の中で誰かが話しているところを想像したり、実際に自分で朗読することもできる。しかし、そのやり方は読み手に委ねられている。 たとえば、「ほんらいはアニの役目でしたが風邪のため、わたくしが」というテキストがあるとする。これをわたしたちはどう読めばよいだろう。見たところ、何の変哲もない標準語だ。何の装飾もない。すらすらと、訛りのないことばで読めばよいように思える。 では、次の3コマを見てみよう。上のテキストは実は『この世界の片隅に

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    rafbm 2016/12/15
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」 | マンバ通信

    マンガ「この世界の片隅に」には、「かく」場面が多い。鉛筆で、絵筆で、羽で。すずはかくことが好きだ。婚礼の日ですら、嫁ぎ先の片隅に居場所を見つけ、行李の前に座り込んで兄に絵入りのはがきを書く。祝いの席で出たべものをひとつひとつ鉛筆で絵に描いてから、「兄上のお膳も据ゑましたよ。せめて目でおあがり下さい。」とことばを添える。しかし翌朝、はがきの表に自分の名前を書き終えたすずの手がふと止まる。すずは新しい家族に尋ねる。「あのお………… ここって呉市…? の何町…? の何番ですか?」 「ぼうっとしている」すずは、嫁ぎ先の住所すら把握していなかったというわけなのだが、ここでわたしがなぜ「すずの手がふと止まる」と書けたかといえば、マンガのコマ運びがこうなっているからだ。 (『この世界の片隅に』上巻 80ページ) すずが表書きを書くコマはわずか3つにすぎない。けれど読者はこの3コマから、鉛筆の動きと停滞

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」 | マンバ通信
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    rafbm 2016/12/01
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