HY戦争(エイチワイせんそう)は、1979年(昭和54年)頃から1983年(昭和58年)頃にかけて、本田技研工業(以下「ホンダ」)とヤマハ発動機(以下「ヤマハ」)がオートバイ市場において激しくしのぎを削った覇権争いを指す。 世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハとの間には深い因縁がある。第二次世界大戦当時、戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ。以下「日本楽器」)の社長であった川上嘉市は、金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業(現:東海精機)の当時社長であった本田宗一郎を頼った。自作のカッター式自動切削機でそれまでの1週間から15分へと製作時間を短縮させた宗一郎へ、嘉市は「日本のエジソン」と高く称賛し、特別顧問に迎えた[1]。 戦争終結後にオートバイ製造へ転換したプロペラ工場は「ヤマハ発動機」となるが、ここでも嘉市