予告どおり、先日の件から日本のネットにおける「公共性」と「世間」について考えてみたいと思う。というか先にかかれちゃった感はあるんだけど、 声を上げ続けること、声を言葉に換えること - 地を這う難破船 まぁ、これも言いたいことの部分に過ぎないのでいいかなぁ、と。(ぼくの説明が分かりにくい人はリンク先の人のところに飛んで確認してくれるといいです。今回は面倒なのですっ飛ばして抽象度高めて記そうと思うので) 今回の件で個人的に思ったのは「世間」知と「公共性」的な正しさが相容れない情況があるのかなぁ、ということ。世間知というかこの世間も2つに分かれるように思うわけだけど。とりあえず「公共性」、<世間>、「世間」としておく。公共性は市民社会的な属性とリンク。 リンク先の文章でとりあえげられていた世間は<世間>とする。つまり<世間>に対する一般的なイメージとしての「空気嫁」的な同調圧力的な世間。んでリン