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ブックマーク / www.kasumigasekikai.or.jp (3)

  • 成田国際空港へ130回 – 一般社団法人 霞関会

    平成25年4月1日に当時の岸田外務大臣から「外務省参与を命ずる。外国要人接遇業務に従事せしめる」との辞令を、また同時に「外国要人接遇業務に従事する期間大使の名称を与える」との別の辞令をいただき、爾来約130回ほど外国要人の送迎のために成田空港に通ったことになる。初代在エストニア国特命全権大使を辞して間もなく人事課長からいただいた1の電話から始まった成田空港通いもこの3月で5年になろうとしており、齢70にならんとする今日、そろそろ最後の御奉公に区切りをつける時を迎えつつある。そこで直接の関係者以外に殆ど知られることのないこの仕事の実態について、読者の皆様の理解を深めていただくべく、少し詳しくご紹介することと致したい。いささか手前味噌になっている点は予めお許しを乞う。(内容は須らく筆者の個人的見解です。) 大臣官房総務課からいただいている名刺には英文で、「Ambassador、Special

  • モザンビークのプロサバンナ農業開発計画―戦略的経済協力 – 一般社団法人 霞関会

    前駐モザンビーク大使 瀬川 進 ―はじめにー 筆者は、2008年9月から約3年間、モザンビークに在勤した。主な仕事は経済協力であったが、ブラジル勤務の経験があり、ブラジルのセラード農業開発とアフリカ熱帯農業開発プログラム(ProSAVANA-JBM:プロサバンナ計画)には特別の思いがある。 プロサバンナ計画は大成功したセラード開発を手とする事業であり、対アフリカ経済協力を象徴する長期の戦略的プロジェクトであるが、プロサバンナ計画の詳細については、政府、JICA等から既に多くの報告書が出されているので、稿ではその骨子を紹介し、断片的ではあるが、現地から見た同計画、その形成と日とブラジルの協力関係、プロサバンナ計画の課題につき述べてみたい。 (注)寄稿文にある日の政府機関名、ソ連・東独等の国名は当時の呼称を使い、特に政府名を記載しない大臣等はモザンビーク政府の役職である。また、地名(

  • 小渕恵三先生の思い出 – 一般社団法人 霞関会

    明けましておめでとうございます。 皆様のますますのご多幸をお祈りいたします。 平成最後の正月を迎えるにあたり、霞関会事務局から新年号の「霞関会会報」に何か書いてほしいと依頼を受けましたので、秘書官としてお仕えした小渕恵三外務大臣に関するエピソードを中心に思い出すままに書くことにしました。 小渕先生といえば「平成」と墨書きされた額を掲げながら、新元号を官房長官として発表した時の写真があまりにも有名です。政治家として謂わば「全国デビュー」を果たした瞬間とも言える極めて重要な歴史の大きな節目に居合わせた訳です。 1.大臣秘書官の拝命 その小渕先生が第二次橋改造内閣の外務大臣として入閣されたのは、平成9年(1997年)9月11日のことでした。そして、その前日に突然、堂道総務課長から私に電話があり「海外出張中の小松人事課長に代わり内示する。大臣秘書官を発令する。」と伝えられました。その時、私は経済

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