『福神江の嶋もうて』、芳幾、1869年(明治元年)。恵比寿と大黒が千両箱を背負った馬をつれて江の島を訪れる。周りには小判、江の島後景からは旭日が昇る「目出度さ」を表す構図。 1894年(明治27年)、日清戦争における牙山の戦いの戦勝凱旋の祝典を描いた錦絵『日本帝国陸軍牙山全勝凱旋之図』(楊斎延一画)。中央上部に「旭日旗」たる「軍旗」を配し、「戦勝」という慶事であるため、古くからハレの日の飲料であった日本酒が振舞われ、酒樽には「万国一」の祝い文句とともに「旭日」が描かれている。また、将校を除く兵士達は白の軍服に、束ねた赤の毛布をかけ「紅白」とすることで作者はハレを強調している[注 1] 「旭日」の意匠自体は比較的古くから広く親しまれており、一部は「日足(ひあし)」と呼称され武家の家紋として用されていた(「日足紋」)[7][8]。特に九州地方の武家に好んで使用され、例として、肥前の龍造寺氏・筑