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ブックマーク / memo1379.blogspot.com (5)

  • オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性(2/2)

    前世紀末から2000年代には、成人向けの美少女ゲーム、エロゲーがオタク文化の最前線となり、この領域でいわゆる「萌え」表現の様式が大いに発展、整備され、あらゆるオタクジャンルに波及していったのであった。今日ではあらゆるオタクジャンルが「エロゲ化」した結果、エロゲー自体はその役割を終えて、衰退したのだと言ってもよいかも知れない。 古参のオタクなどには、ポルノ中心主義とも言える今日のオタクカルチャーに違和感を表明する向きも見られる。そこには、ほんらい「お色気」的な要素は、客寄せのサービスで、表現作品の質たりえないはずだという意識もあるように思われる。あるいは、売れないクリエイターが、ポルノで糊口をしのぐというような古典的なポルノのイメージというか。 しかし結論から言えば、広義のポルノこそオタク文化の主題である。ポルノ的欲求は、人間の最も私的な領域に属する事柄であるから、ポルノ表現を前面に押し出

    rgfx
    rgfx 2018/10/09
    「「全てはネタに過ぎない」というオタクの中心教義」だねえ。
  • 一部でネットが市民的自由や資本主義超克を推進するものと見なされる奇怪(2)

    ネットではコンテンツは無料であるのが当然という意識が強く、また著作権にルーズな所がある。作品を相互に引用しあい、改変、パロディ化するのはオタクが好む手法でもあり、ネットのこういう部分はオタク文化との親和性も高い。 こういうネットの無料/共有文化を、ある種の共産主義的なもの、資主義的生産活動を超えていく動きとして捉える論調というものが、たまにある訳である。 しかし実際には私達は、通信量と、商品の値段に上乗せされた広告費という形でネットの世界に金を落としている。だからネットの無料文化は、かつては実際に何かを作成している人が受けとった筈の取り分が、インフラストラクチャーや、広告収入が見こめる集客力などの「場所」的な権益を有する者に移るしくみに過ぎない。かかる地主丸儲け的なシステムを、資主義の超克と見做すのは適切ではない。資主義どころか、下手をすると近代以前である。 ネットは管理と効率化のシ

    rgfx
    rgfx 2017/07/04
  • オタク=ネトウヨ文化克服のためのメモ

    前世紀末から2000年代には、成人向けの美少女ゲーム、エロゲーがオタク文化の最前線となり、この領域でいわゆる「萌え」表現の様式が大いに発展、整備され、あらゆるオタクジャンルに波及していったのであった。今日ではあらゆるオタクジャンルが「エロゲ化」した結果、エロゲー自体はその役割を終えて、衰退したのだと言ってもよいかも知れない。 古参のオタクなどには、ポルノ中心主義とも言える今日のオタクカルチャーに違和感を表明する向きも見られる。そこには、ほんらい「お色気」的な要素は、客寄せのサービスで、表現作品の質たりえないはずだという意識もあるように思われる。あるいは、売れないクリエイターが、ポルノで糊口をしのぐというような古典的なポルノのイメージというか。 しかし結論から言えば、広義のポルノこそオタク文化の主題である。ポルノ的欲求は、人間の最も私的な領域に属する事柄であるから、ポルノ表現を前面に押し出

  • オタクの表現様式と、「オタク左翼」の不可能性(1/2)

    初期のオタク文化の時代は、まだ世の中に、一般人も社会問題に関心を持つべきだという左翼的な(保守主義者達は、人がその分限、職務を超えて政治的であることを好まないという点で)考えが世間に残っていたので、オタクとしても、そういう態度をとる傾向にあったのである。なまじオタク文化をいつかは世間に認められるものにしたいという野心のあるオタクほど、その必要を感じていた。「ゴジラのテーマは反核」「ガンダムは反戦」などという解釈、主張は、そういう空気を背景としたものであった。しかしこれは今日からみるとやはり滑稽に見える。これらの作品の一番力が入っていて、見どころとなる部分が、取ってつけたような政治的言及には無いことは明白だった。この問題は、作家がどういう意図でそれを作ったかということではなく、実際の作品がどうなっているかという話である。別の言い方をすれば、作家が言葉の上だけで考えたことではなく、芸術家として

    rgfx
    rgfx 2017/07/03
    リアリズムと当事者性の自認・否認の下りが重い。(これを思い出しつつ→ 海洋堂主催「センムさん還暦!大勝利パーティー」はとんでもないワンダーランドでした https://togetter.com/li/1125508
  • 理工系の保守主義について

    数学のできない人間は、完全には人間ではない。」 ──ロバート・A・ハインライン「愛に時間を」 自然科学を重視することを「左派的属性」だとする考え方があり、当の左派のみならず、ある種の保守派からも(進歩主義批判のような否定的な意味で)言われることがある。しかし、これは俗説だろう。 「知は力なり」とは、フランシス・ベーコンの思想とされるが、ベーコンはまさにこの意味において自然科学を重視し、伝統的な学問の実効性の乏しさを批判したのだった。一方、政治家としてのベーコンは、政治倫理のもつ実効性を疑い、しばしば権謀術数を肯定する面を持っていた。 自然科学それ自体には、政治的価値判断は含まれないとしても、生身の人間が、科学を自分の専門として選択するということは、近代科学の始まりの時から、すでにある種の政治的選択と関係していた。それは、オタク文化が、ときおり美化されるような、子供のように純粋な趣味や美の

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    rgfx 2015/04/02
    「彼らの見方では、科学の守備範囲から一歩出ると、そこから先は何も証明できない混沌になっている」1,2,たくさん、みたいな。いや、しょうがないんだけどその事に自覚的になっておく必要は有るよね。
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