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ブックマーク / call-of-history.com (5)

  • 中世ヨーロッパの築城形式「モット・アンド・ベイリー式城塞」のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    モットは自然の丘陵地の上に設けられる場合もあれば、盛り土を築いて造られる場合もある。高さは最大のもので約30メートル、平均すると6~9メートルのものが多く(注1)、形状は円形や楕円形など様々だが、頂上部を平坦に、斜面を急坂に造成して作られた。モットの頂上には土・木製の居館が築かれ後に石造の城塔へ発展した。通常、モットへは外部から直接行く通路が無く、周囲に築かれたベイリーを通る必要がある。 ベイリーは、モットの下部に位置する平地部分で兵士たちや職人、領主の使用人などの住居、馬屋、納屋、礼拝堂、広場などが築かれている。ベイリーの周囲には土塁と壕をめぐらし、土塁の上に木造のパリサードが設けられている。壕には通常跳ね橋が架けられ外部と繋がっていた。モットを持たないベイリーは「環状構築物(リングワーク” Ringwork”)」と呼ばれる。また、ベイリーは非常時には近隣住民の避難地としても機能していた

    中世ヨーロッパの築城形式「モット・アンド・ベイリー式城塞」のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    rgfx 2019/12/11
  • 太平洋戦争末期の日本本土侵攻計画「コロネット作戦」と「オリンピック作戦」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    葉山・逗子・鎌倉など三浦半島から湘南に至る相模湾沿岸を歩いてみると、思いのほか戦時中の基地や砲台などの軍事施設跡が残っていることに気付く。その施設跡について歴史を調べてみれば、太平洋戦争末期、相模湾こそが日米双方で土進攻計画の上陸・防衛の要衝と考えられていたことに行き着く。実行されないままに終わった幻の相模湾上陸計画は「コロネット作戦」と呼ばれていた。 コロネット作戦の全貌について、大西・栗田・小風著「相模湾上陸作戦―第二次大戦終結への道 (有隣新書 (52))」(1995年)が詳しい。非常に資料的価値が高いだと思うが、残念ながらamazonは在庫薄なようだ。しかし、神奈川県内の書店では二店に一店ぐらいの頻度でよく見かけていたのでネットより書店に行くと容易に入手できると思う。以下、同書を中心に簡単にまとめ。 1)日土侵攻計画の立案米軍が日土侵攻の可能性を考慮し始めたのは1942

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    rgfx 2017/04/10
  • 「姑娘」水木しげる著

    水木しげるが後年、中国出兵していた人物から聞いた体験談を元に描いた短編作品。姑娘(クーニャン)とは、中国語で若い未婚女性、お嬢さんといった意味である。 第二次世界大戦中、中国侵略を進めていた日軍のある分隊は、小さな村へと侵攻、ある家に女性物の下着が干されているのを発見したことから、狂気にかられ始めていく・・・ 「姑娘を捕虜として部隊長の前へ出せば「殊勲甲」まちがいなしというところでしょう!」そう部下が進言し、分隊長も「どうやら敵もいないようだし・・・・・・こうなったら姑娘ひとりでもつれてかえらなきゃあ手ぶらでかえるわけにもいかんな!」その部隊の暗黙の了解として、中国人女性の略取が日常化していたかのように描かれている。 かくして分隊長以下若い女性「姑娘」探しに奔走。ついに、彼らは村長宅で息を潜めて隠れている村長の娘を見つけ出し、懇願する村長夫婦を一喝して、強引に彼女を連れ去っていくのだった

    「姑娘」水木しげる著
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    rgfx 2015/12/01
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
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    rgfx 2015/11/11
    参考になる/奄美さん双方からボコられる所ルーマニア感ある(ない)
  • 「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで

    「アンネの日記」が何者かの手によって都内図書館で多数破られているというニュースが次々と報じられている(2014年2月)。サイモン・ヴィーゼンタール・センターによる批判を皮切りに海外メディアでも報じられて、国際問題の様相すら呈しつつある。 この事件については当局の適正な捜査を見守るだけだが、これを切っ掛けにふと「アンネの日記」を色々と検索してみると、未だにアンネの日記偽書説がインターネットに広がっているようだ。え?今更?としか思えないのだが、結論から言うと「アンネの日記」は1981年にオランダ国立戦時資料研究所とオランダ国立法科学研究所による科学的調査の上でアンネ・フランクが書いたものと確定している。この件、日ではwikipediaに軽く触れられている程度で、インターネット上にはテキストが見当たらないので、これを詳説したオランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(絶版)をもとに改

    「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで
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    rgfx 2014/02/24
    revisionistsぶってる糖質な方々のレパートリーに加わった・ロックオンされちゃったジャンルってほんと大変そうですね。
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