三 浄土教の布教 浄土教は、中国唐代浄土教の師善導の影響を強く受けて、わが国で浄土宗として成立して以来、日本的仏教として発展したものである。しかも、初めは死後の極楽世界を美しく描いて、荘厳な極楽往生を願う貴族の観想的な仏教であったが、平安時代末期以後、特に中世に入って、末世の苦悩をのがれ、阿弥陀仏にすがろうとする庶民の仏教へと展開した。そのためもあって、浄土教の受容を平安末期以後のことと考えがちであるけれども、阿弥陀仏とその依拠である浄土三部経(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は、仏教伝来の初期からわが国に入っていた。 阿弥陀如来 無量光仏・無量寿仏、無量覚者の意で、その愛は無限である。十劫の昔、王位を捨てて仏門に入った法蔵比丘は、四八願を発し、衆生と共に成仏せんことを願って(第一八願)功徳を積み、願行成就して阿弥陀仏になった。したがって、浄土宗(特に西山派)では、法蔵菩薩と衆生の同時成
更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮 寂光院1 よりつづく 「寂光院本堂」「書院」 焼失前の寂光院本堂の内陣や柱は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたものであった。 外陣は慶長8年(1603)に豊臣秀頼が片桐且元を工事奉行として修理させた桃山様式のものであった。 また、その後の江戸時代初めには、豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に手を尽くしている。 しかし、本堂は2000年(平成12年)に放火で焼失してしまった。 当時の住職の「すべて元の通りに」を合言葉に、焼け残った木組みや部材から材木を吟味し、平成17年に再建された。 なので現在の本堂はまだ新しいが、造りとしては古式通りに忠実に復元されたものであると云う。 本堂前、西側の風情ある庭園も「平家物語」に描かれていて、ここも放
今春の「京都非公開文化財特別公開」(京都古文化保存協会など主催、朝日新聞社特別協力)では、黒く焼け焦げた地蔵菩薩(ぼさつ)立像(国重要文化財)が、京都・大原の寂光院(じゃっこういん)で公開される。火災に遭いながらも、なお立ち続ける地蔵像の姿は、文化財の尊さとそれを守り伝えることの大切さを見る者に訴えかける。今月26日は文化財防火デー。 天台宗の尼寺で、平清盛の娘、建礼門院徳子が余生を過ごした「平家物語」ゆかりの寂光院。2000年5月9日未明、その本堂が放火により全焼した。 本尊として安置されていた鎌倉時代の高さ2・56メートルの地蔵像も焼けたが、表面が黒く炭化しながらも、立った状態で残っていた。その後修復され、寺の収蔵庫に安置されている。瀧澤智明(ちみょう)院主(80)は「焼けてなお、皆様をお守りくださっている。本当によく残ってくださった」と手を合わせる。 歴史をみれば、文化財が失われ…
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く