タグ

ブックマーク / pubspace-x.net (3)

  • 「怠惰または鬱」アガンベンを読む(4) -『他者の所有』補遺(4) – | 公共空間 X

    高橋一行 (3)より続く アガンベンは、『スタンツェ』(1977)において、中世の修道院におけるを論じている(注1)。それは「白昼のダイモン」と呼ばれ、怠惰、陰、生の倦怠、無為とも呼ばれる。「僧院の中で行われるあらゆることに対して、無気力になる。安らかに過ごすことも、読書に参加することもできなくなるのである。こうして哀れにもこの修道士は、修道院の生活から何の楽しみも得られないなどと不平を漏らすようになる。そこに留まる限り、彼の信仰は何の実りももたらさないだろうと嘆き、苦悶するのである。うめくような声で何か修行に努めようと宣言はするが、それも無駄で、放心したかのようにいつも同じ場所にじっとして、悲嘆にくれているのである」(p.26)。 怠惰という言葉を使っているが、明らかに、これはの現象だとアガンベンは考えている。その特徴は、4つある。それは、「精神的な生活の負担や困難さを前に狼狽して

  • 「所有しないで使用する」アガンベンを読む (1) -『他者の所有』補遺 (1) – | 公共空間 X

    高橋一行 G. アガンベン (1942 – ) は、ネグリと並んで人気のあるイタリアの哲学者である。著作は、20冊近くが翻訳されているが、私がここで扱うのは、以下の4部作を構成する5冊の翻訳である。この4部作は未完で、また、原文は出版されているが、翻訳がまだなされていないものもある(注1)。 I 『ホモ・サケル -主権権力と剥き出しの生-』(原文1995=翻訳2003) II-1 『例外状態』(2003=2007) II-2 『王国と栄光 -オイコノミアと統治の神学的系譜学のために-』(2009=2010) III 『アウシュヴィッツの残りのもの -アルシーブと証人-』(1998=2001) IV 『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』(2011=2014) この最後の作品が、昨年末(2014.10.24)に翻訳され、私は、興味を覚えた。そこでは、所有が、正確に言えば、所有しないとい

  • ラカンの鬱論     『他者の所有』補遺(7) | 公共空間 X

    高橋一行 (6)より続く 「アガンベン論(1) – (5)」で、を論じている。所有論の帰結として、喪失の病であるに言及し、またアガンベンの論を、「所有しないということ」を主張しているものだと捉えた。そのアガンベンが、修道院におけるを論じていて、「アガンベン論(4)」ではそのことを対象とし、その際に松卓也の「フロイト=ラカンのうつ病論」を参照し、その前半の議論を引用した。今回は、その続きである。いよいよラカンの論について議論したい。 まず、ラカンの「4つの言説」を取り挙げ、続いて、5番目の「資主義者の言説」について説明する。ここからラカンのへの言及を見て行きたい(注1)。 疎外と分離の説明から始める。ここに、剰余享楽と対象a、それに象徴界と現実界の関係という、ラカンの基的な概念がすべて出て来る。 真理によって支えられた動因が、他者に命令する。その結果として生産物ができる。これ

  • 1