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歴史と地方に関するroseknightのブックマーク (4)

  • 京都で共産党が強い理由

    https://anond.hatelabo.jp/20230504221251 とか https://anond.hatelabo.jp/20230504230548 (削除済み) が話題だけど、そもそもなんで京都で共産党が強いか、って理由が書かれてない。 55年体制下では、非自民の最大勢力は社会党だったのは御承知かと思う。 ただ、京都ではそれが共産党だったわけだ。 何故かと言うと、京都では部落解放同盟(社会党の有力支持団体)への配慮(市への採用枠/生活保護・公営住宅その他公共サービスの優先需給枠/「差別だ!糾弾するぞ!」と謂えばどんな無理難題も通る風潮(特定地域の路上駐車が全く取り締まられないとか、どんなクレームでも飲まされるとかね))がいきすぎていて、その他の住民の暮らしを圧迫していたんだ。 ※京都市環境局の職員(もちろん事実上無試験の採用枠)が毎年に近いくらい覚醒剤などの事件を起こ

    京都で共産党が強い理由
    roseknight
    roseknight 2023/05/10
    一昔前の共産党は、社会党勢力と利権関係で対立を抱えていたのか?冷戦が終結した頃から共産党の存在感は落ちてきたのでは。京都における維新の躍進は、平成時代から停滞する日本の縮図でもあるように思える…
  • 奈良時代に律令制度とともに進化した「地名」の成り立ちを紐解く | 歴史人

    大和朝廷の土地開発にちなんだ地名は、現在も残り、私たちの生活の近くに存在する。奈良時代、地名の由来は当時の律令制度に基づくものが多かった。制度の進化とともに、地名も変わり、そしてまた発展していった。ここでは古代に生まれた地名の由来とその紐づく律令制度について紹介していく。 古代の部曲が律令制の戸籍 律令の人頭税に用いられ把握 物部守屋 奈良天理市あたりが拠。蘇我馬子との丁未の戦以降、力を失う。「物部」がもののふとなり武力を表す。伴造の下に品部が置かれ、居住した先に同じ物部となり地名に残った。(国文学研究資料館蔵) ヤマト王権による統一国家が目指されていたのは、3世紀中頃あるいは4世紀に始まる古墳時代からである。王権と協調関係を保ってきた地方豪族たちは、王権から国造に任じられたものの、半独立状態を維持していた。これが飛鳥(あすか)時代になると、律令(りつりょう)制のもと、律令国として中央か

    roseknight
    roseknight 2021/12/31
    戸籍やそれに基づく条里制の名残りは日本各地の地名に残っている。その背景には支那大陸や韓半島の言語や技術も存在する。飛鳥の名が古代朝鮮語の「スカ」に由来する説は面白い。古語からは色々な発見ができそうだ。
  • いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

    終戦から75年以上を経て、いまも国内には戦時に使用された施設の跡が残っている。その中には空襲跡のような被害の歴史だけでなく、日が積極的に戦争推し進めていた加害の記憶もある。土決戦に備えて「大営」司令部や仮の「皇居」の移設まで予定していた長野県松代市の地下壕群など、3か所の「戦争遺跡」を訪ねた。(取材・文:神田憲行/撮影:小禄慎一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 《「外相、もうあと2千万、2千万の特攻を出せば、日は、かならず、かならず勝てます!」》 《「いや、もうあと2千万、日の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば――」》 これは「日のいちばん長い日」(岡喜八監督、1967年)という映画に出てくる大西瀧治郎海軍中将が、日の降伏を止めようとして外務大臣に迫るせりふだ。SNSでは映像の一部とともに紹介されることも多いので、見たことがある読者もいるだろう。末期にあ

    いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
    roseknight
    roseknight 2021/08/16
    地下壕が形成されていた頃には軍の足並みが揃っていなかったのでは。中国への加害行為だってどこまで本気だったか?単なるべき論では人間性は保たれまい。善悪は横に置いて、色々な軸を持ちたいものだ。
  • 鹿児島県に合併されてすぐ西南の役に巻き込まれた宮崎県の再設置運動

    上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい。 宮崎県は、七世紀中期以降に成立したとされる「日向国」がルーツで、その当時は今の宮崎県と鹿児島県の土部分を管轄する大きな国であったのだが、八世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は明治初期まで、概ね今の宮崎県の県域が日向国の領域であったようだ。 南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例に違わず群雄割拠の時代となり、土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、天正六年(1578年)の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配することとなった。しかしながら、天正十五年(1587年)の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏し、その後日向国は功のあった大名に分知

    鹿児島県に合併されてすぐ西南の役に巻き込まれた宮崎県の再設置運動
    roseknight
    roseknight 2021/08/04
    宮崎と鹿児島は対立する宿命にあったのかも知れない。藩名が残っている状態ならば西郷隆盛の戦いは違ったものになったろう。大きな日向国の枠組みが宮崎人の悩みの種では。基礎自治体と国との関係が重要になる。
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